神さまの子ども

 ぶどう畑の裾には家庭教師を待つ男の子の顔が隠れていた。ぶどうのひとつぶひとつぶには南極とアフリカと地中海が三つずつ入っている。まずしい神さまはやおやのおじいさんが150円にしてくれたぶどうをこどもの神様に食べさせた。こどもは学校で下痢になって、保健室ですこし泣いた。ぼくはそのころ雨の日の体育館で、すべって頭を打っていた。今でもそのときの十五分のあいだの記憶がもどらないままでいる。ぼくの脳みそには入ってあるのかもしれない。神さまの子どもの隣で眠っていた。
 夕方になってもぼくは起きなかった。太陽は生まれながらにしてあまりに正確な時計を持っていた。高さが数センチ違うだけのふたつの場所に流れる時間の、進み具合を測れるほどに正確なそれを、ありの巣のように小さな二つの目に当てれば、太陽は世界のまだらもようを見ることができた。北も南もいまどこでなにをしているのかを知ることができたから、方角の仲間たちを呼び出して、地球をガラスの十六枚の輪から球にしよう。できるなら岩石にしよう。雨が降り、草が生え、山は立ち上がる。太陽も一人前の人生を送ろうと必死でいた。
 ぼくはそれを飛行機からじっと見ていた。空の上の方には平たい白が三枚ほど広がっていた。下には粘っこい水面を子どもが吹いてまわったような雲の切れ切れがあり、ぜんぶの手前に目が光の紐虫をたくさん散らばらせている。あ、飛行機が斜め上に飛んでいく、はやいぞはやいぞ。
「飛行機なんてはじめて見た!」
 ぼくの隣にすわっているこの女の子が好きだ。死んでも死んでも好きだと思う。
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