pot hole
 
 
そんな市庁の態度があなたを不安にさせているのでしょうね。
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 むかし夢を見たわたしが駅から道なりに歩いて入ったことのない美容室と、よく使うコンビニの入っているビルの隣にあったマクドナルドの二階から夕方の道路を眺めていると、黒いワゴン車が信号を無視して交差点をゆっくりと走り抜いていくのを見た高校の友達だった笠原が川の浸食を小学校の授業でやった。
 校庭の端の国旗を運動会のときとかそういう大事な行事のあるときに掲げる金属の三本の棒のそばに大きな銀色に光っているタンクはいくつかあって、青色のフェンスに囲われたそれは学校中の蛇口から出てくる水が溜まっては入れ替わるタンクだったけれど、水不足の多かった笠原の住んでいる地域では当たり前のように学校においてある雨水を溜めておくタンクとは大きさも種類も違っていた。
 そのタンクの近くの大人より高さは小さいくらいの砂山で、先生は笠原や生徒に授業で見せた。休み時間にみんながばたばたとドッジボールやドロ警みたいに楽しく遊びまわったり雨でどろどろになったりする校庭が、でこぼこになるのを直すために時々きれいに鉄骨を紐で引っ張った軽トラックが均しているその土が集まってできた砂山の上から先生はホースで水を流すと見えない凹凸にそって反射する光は流れていった。乾いた黄土色の斜面に抉れて茶色に変わった道ができ、
「これが浸食です、水の量を大きくすると道が変わって行きましたね? そうやって例えば、ここの場所もできるのです」と言って窓の外の指をさすと、つまり学校の裏を川が流れていた。
 その向こうに山があり、その斜面が中学生のころ近年まれにみる大雨で同級生のひとりのおじいさんが死んだ日に土砂崩れを起こして土砂が汚れた川に流れ込んだ。木がなだらかに生えていて覆っている風景が、いつまでも変わらないと思っていたのにその日変わって今ではコンクリートになっていた。川にかかる橋もコンクリートの大きな青い橋になった。もう土砂崩れは起こらない、起こらないように塗り固めたのだから起こらないとみんなは言ったけれどわかったりはしない笠原は注文したフライドポテトを食べながら道路を見て思い出した驚きが一瞬で、こわかったなぁと言った。そんなにしっかりと変わるとか死ぬとか、そういうルールがはまってるだなんてちょっとこわいよな。
 
 
 川の中まで降りるのは川原のきっと小さいから家庭菜園だと思うそれを踏み通らなければならないのが今では難しく、川のそばを通らない。夢のなかでも子どもたちは遊んでいるのを危ないと思うひとが増してしまったから、遊ぶのが変わらず毎日続くのはいけないと思った先生たちや親たちは作った頑丈なフェンスが川原をどこまでもつないでいる。溺れて流されていた。
 笠原は下校途中の川原に降りて雨の最近は降っていない穏やかな水面に足をつかり、ザリガニや魚を釣っているそんな遊びを子どものときしていることなんてなかった。少なくとも笠原のころは学校を出てすぐの裏手の川にかかっている橋があったのはあまりに近くて、まだ歩きはじめて数十分たったころに子どもたちが浮かべる退屈な表情を見せることがほとんどなかった。
 三年前からいつも学校を出て下校するために通っていた体育館の側を通る道が、老朽化した体育館の壁の塗り替えのために通れない半年のあいだに人通りの多い別の道に切り替えられたのをきっかけとして、人通りの少ない川にかかっている橋を通る道は使わなくなっていたからもう川で遊ぼうとする考えが今の生徒にはなかったし、ありえなかった。だからせっかくあの頃の自分たちがあの道を毎日通ったのにしたいとも思わなかったのが今ではちょっともったいないと思った。
 川を毎日見て歩いていた笠原は夢のなかで作られた立ち入り禁止のフェンスが金網のフェンスで、錆除けの塗装がしてあったにも関わらず最初に作られたとき通っていた生徒はみんな卒業した六年後になるともう赤錆は覆っていた。すっかり習慣もなくなって遊ぶために川へ入らなくなった。笠原が実際の川のなかで遊んでいたそれを見る先生は危ないと思ってフェンスが作られるだろうし、これでよかったのかもしれなかった。
 
 
 そんな夢を見たのだったから、十歳のころはじめて学校ができたそれから百三十周年を迎えるイベントでみんなが調べて発表したときに、川の学校のある対岸にむかしは学校があったのを知ったのを笠原は何年もたってから不思議に思ってしまった。木造の二階建ての写真が残っていた。発表する班をクラスごとに仲のいい友達で作って、床にそれぞれのしいた大きな模造紙の上にのり、太いペンや赤や黄色のペンでぎこちなくむかしについて書いたのはどの班も似通っていたからその写真もみんなが大きく貼っていた。そして指をさし、
「これが学校の最初のころで、もうだいぶ古くなった木造の二つ目の校舎です。今の名前になったときにたぶん写真は撮られました。校長先生が戦争で死にましたし生徒も死んだのでひとは少なくて、今より校舎がすごく小さいです。これは二つ目ですが一つ目は古すぎて写真がないので二つ目です。
 今の学校は五十年くらい前に建てられたときには体育館がなかったりしましたし、運動場に小さな校舎があったりもしました。名前がむかしはちょっとずつ違っていて、全部で五回も変わって今になります。むかしは使わなくなったお米の倉を使ったのが最初の校舎でしたが、それからもう百三十年もたちます」
 どうして百三十周年の記念に大きなイベントをしたのか、百周年にも同じようにしたのだったのはわかるけれど、来年には百四十周年を迎えるからそれを祝うイベントがあるのか、卒業した笠原は聞いたことがなかった。夢のなかでは校舎がなくてただ生徒が遊ぶから危ないと思って作られた長いフェンスがあるだけだった。
 笠原は上京した十九歳のときに入ったマクドナルドの二階の窓際に座って、窓ガラスに貼られている大きな黄色の文字の隙間から道路が見えているとほとんど重なった。見たこともないはずなのに夢のなかの道路と色や距離感がぴったり重なった。雨がいつも降っていた。そこは三年前に集中豪雨が襲って、大きな土石流が電車や駅を下敷きにしてしまう災害が起こった土地のようなものとは違って、安全な名前だったから笠原の父親はアパートも選んだのに道路の水は増していた。
 側溝から膨らむ蒸気のように膨らんでは弾けるにおいのする汚水が歩道はもちろん、車道まで浸すくらいあふれるから車やバイクは糊のような音を立てて枝分かれする道路を走っていった。笠原はむかしから水不足の多い土地に住んでいたのは夏に干からびた川をよく見かけるというか、ほとんどが干からびてしまっていたのに学校の裏手を流れる川は一度もなくて逆にダムと上流でつながっているそこは放流で水嵩が頻繁に増した。うるさいサイレンが遠くから鳴るか、もしくは家でテレビを見ていると上の方にテロップが流れて放流を知らせるのを見ているとあの川の汚れてしまった水のうねりを思った。川原が浸っていた。笠原は住んでいるアパートが四階建てで、二階に住んでいたベランダからアパートの正面の三叉路を眺めていると、道路を慎重に歩いているかっぱを着たおそらく女のひとがじっと水面を打つ雨のしぶきを見つめていて、道路に当たって跳ねるというより溜まった水の表面を波立たせる雨になっているのが降りはじめて一週間目の日曜日の夕方のことだった。
 女のひとは傘をささなかったのが、よく見るとまだ小学生の子どもだったからうれしかった。笠原も一度だけ長靴を履いた登下校がすごく雨もうれしかったのを思い出した。ひとりで暮らしはじめて一週間の雨が続くとさすがに洗濯物が乾かない支障は出たし、降り込まない室内も雨の湿気に満ちてしまうし、おかげで窓枠には点々としたカビは生え、今では子どものころの長靴もなかったから外にも出ようとしなかった。
 
 
 さすがに笠原も違和感を覚えるくらいの水嵩だった。わたしは久しぶりに送られてきた笠原のメールを受け取ったときの雨はもう二週間も降っていて、道路は誰かがどこかへ向かわなくちゃいけない日々に歩いている波紋の絶え間なく広がる水面が覆っているのは変わらず、ほとんど一週間前の日曜日と変わっていないのがすごくおかしい。
 くるぶしにも達しない今の水嵩は本当なら東京をすっかり跡形もなく沈ませなくちゃいけないくらいの雨なのに、どうして大きな騒ぎにならないんだろう、騒ぎになっているのはすこしあるかもしれないけれど数年ぶりの寒波が押し寄せて死者が五十人をこえたとかそういうくらいでぜんぜん足りないと笠原は言っていた。
 わたしはたしかに雨は降っているけれど今は梅雨だからそうであって、そもそもひたすら二週間も降っていない。断続的に雨が多い。地方でも東京についてはほとんど生活に関係ないにも関わらず毎日伝えられるそれをみんな当然のこととして聞いているから雨が例年よりひどく長引いているのは知っているし、全国的にそうだし、それによって張り巡らされた地下鉄が浸水してうまく機能しない混乱が起こっているのは知っているけれどそれが沈没してしまう氾濫のようになったことはぜんぜん聞いたことがなかった。しばらくするとそうなった。笠原の地元では夏には必ず干上がり水不足になる心配がほとんどなくなった。
 わたしは地元の国公立大学は高校の近くにあるから自転車で通っていた去年までと感覚が違わない。高校を卒業してすぐの今年の春に免許をとった。車の免許をとっても近所のコンビニで週三回、夕方にバイトをして稼いだくらいじゃとても買えないから原付を乗っていると二度も転倒して親に乗るなと言われた。自転車でもよく転ぶ。
 コンビニには同級生の高校に通っている弟や妹が友達といっしょに学校の帰りに立ち寄ることが多くて、雨がよく降るから傘がよく売れていた。天気の悪い日は自転車にカッパを着て学校へ行かなくちゃならなくなったのは自分だけが高校の、それこそ去年と変わらないみたいであまり大学には通わなかった。わたしは雨がひどいみたいで大丈夫? 地下鉄は使えないのは大変だろうねと言うと、べつに大学まで歩いていけるから地下鉄は使えないんだよ、せっかく東京なのに。でも満員電車とかひどかったりするんでしょ? それはもうね、すごくよかったよ、遅れないし。
 それから数日してまた笠原はメールを送り、それでも変わらない水嵩のなかを必死にかきわけながら学校へすこしずつ歩いていると、公園が消防署と向かいあう道路の手前の枝分かれした箇所にゴミ捨て場があって、もちろん笠原の地元とは違い、木曜日は不燃物、水曜日と土曜日は可燃物、月曜日は瓶や缶やペットボトルが新宿では捨てられるルールになっているそこからゆっくりとなにかが浮かんでいる子どもの死体くらいの大きさの汚れたゴミが水面に不燃物と並んで見えてしまって、ゴミは汚れたといっても内側の綿が飛び出たり首が取れたり目のインクが擦れたりしているわけでもなく表面の汚れに見え、どうしてもそれが無くならず気になった。
 階段を無理やり引きずってのぼった今は笠原の部屋の玄関に立てかけるように寝かせてあるのがすごく黒くて、なるべくいつもは履いてない靴まで濡れてしまった。学校の行きしなに偶然見かけるならまだしも、夕方の帰りにだってあったから仕方がなかったんだよ、と笠原は言った。においはあるの? ときくと、増したような気はしていた。
 
 
 わたしは夏になっても一向に収まらないようだったらバイトでためた資金で夏休みには東京へ遊びに行こうと前から思っていたし、言い訳もつくから笠原の様子を見ようと言ったらお母さんは水害を心配した。飛行機はおりるのかしら? 飛行場も雨は大変よね。
 さすがにそこまではひどくなくて笠原は「雨がやんだ!」と言ってよろこぶメールが来るか、もしかしたら「冗談だよ、信じた? バカじゃないの、夏休みどうする?」とでも来るかと思ったのにそのまま夏になったし、むしろ出会った笠原はなんだか悪化しているようだった。上京して会ったことがそれまでなかったから気のせいでしかなかった。結局料金の問題で夜行バスに乗って行ったから満足に寝られなかった。東京駅で降りて折りたたみ傘を開いた東京は思っていたのと比べればずいぶんと落ち着いていて、もうすっかり慣れてしまっているようだった。 
 実際そんなに連日雨ばかりが続くというわけじゃないし、笠原の最寄駅まで行くための地下鉄も遅れや運休といった不安なく動いていたけれど七月のなかばの何日かはそれでも影響がひどかったようで、用意した排水機関が追いつかず、いくらかの浸水は道路や線路を停止した。
 海と同じ高さにある地下鉄の入口はみんな残らず浸水する。地面の下にはまるで神殿のような大きさの水を貯める空洞があり、天井が高くどこまでも満たされないようにさえ思えてしまうそこは調圧水槽といって道路の下を通る巨大な地下水路とつながっているのをむかしテレビで特集されていたから、もしかしたら危なかった道路の浸水も長くて二三日で終わるだろう、結局は! みんなが思ったのはそれでもやっぱり終わらなかった。
 雨は降ると小さな川からあふれ出た水がどんどん配管にそって空洞深くへ流れこみ、それぞれの空洞に雨水がたまれば地下トンネルを伝って水が調整されて流れ出す。過剰な排水を抑えるようたくさんのポンプがいっせいに動いて川のなかへと排水される仕組みが毎秒二百万トンを排水したのに被害はあった。だからところどころの窪んだ場所はたしかに浸水の気配はした。
 いまだに澱んだ水の残っている部分をわたしは坂道の先とかに見かけた。防水加工を施した靴でもないと歩けないと思うような道さえあったから真夏の日差しで圧迫した。一番軽いというか薄っぺらな真冬の乾燥した昼間と比べればきっと身体が違ったくらいの湿気だったし、わたしの着ていた赤色のブラウスだけじゃなくてすれ違うTシャツやジーパンを着ているひともなにかしら湿っていた。
 笠原は窓から三叉路を示すと、平板な雨はそれでも変わらず降っていたのが蓄積をはじめた。アパートの部屋は荷物が少なくて、こじんまりとしたベットと机と冷蔵庫と、笠原は充満する生活感が嫌いだったのはたぶんむかしからだ。今でもこんなに降ってる、なにがおかしいんだろう? こんなに降り続いていて、どうしてこれくらいの氾濫で済んでるのかってことだよ。
 それはもう何度もメールで聞いた話だったからわたしは聞かずに震えている水面がきれいだった。笠原の部屋で学校についての話をしたり、笠原が通っていた高校のわたしの同級生の話をしたり、コーヒーを飲んだりすると蛇口から出る水道水を嫌ってミネラルウォーターをやかんに入れるなんてはじめてで、念入りに沸騰するしばらくの時間を過ごしているうちに雨が高まる水嵩を作っていった。気づけばいつの間にか大きくなっている速度だった。
 三叉路には個人営業の古い八百屋や定食屋があって、笠原はあまりに近いし頻繁に訪れる人々の関係が密すぎて今まで行ったことがなかったそこは浸水によって今日は店を早々と閉めてしまった。それは東京のどこも同じだった。珍しく開いている店も運悪くシフトに入っていたアルバイトの店員がコンビニの店のなかへ汚れた雨水が押し寄せる面倒さにこらえて何度も何度も水を外へと掃き出そうとするけれど意味もなく追いつかないし、雨のなかの客はほとんど来なかった。どうしてこれでぼくはお金がもらえるんだろう? そう思う時間も働いているのだった。
「こんなにいろんなところが浸って入れ変わって繋がるのだったなら試しに飲むのも吐くのもこわいくらいなんだ、どこから来るのかわからない。あれだってそうだろ?」
 わたしは笠原が目をむける玄関の子どもの死体くらいの大きさのゴミを振り返ると、電気のついていない玄関に薄暗く座りこんでいるそれはなんだか触る覚えのあるような気がしてしまい、黒くくすんだにおいの残っているゴミが確かに子どもではなくわたしは子どものころによく遊んだ学校の裏手の川のなかで見つけた二つの目と腕と顔にほとんど似ているのだった。
 子どもたちは学校の帰りや家に帰ってから集まるその後に散らばりながらも誰かひとりを先頭に選びつつ、降りていった草むらのなかに分厚いバッタを見つけたわたしが後ろのみんなにむかって声を張りあげると友達はいっしょに驚いて喜んでくれる気がした。笠原もいるはずだったのが、むかしはいつもすごく仲良く遊んでたよねと言うと、笠原はまったく覚えていなかった。
 
 
 先生は遊んじゃダメだと言ったからかもしれない。学校の裏手の川でまだ小さい六歳くらいの女の子がひとり死に、もうひとりのいっしょに遊んでいた子は助かった数十年前の事故があって、噂になったのだけれど助かった女の子は頭にぐっしょり水を吸い込んだ防空頭巾をかぶり、モンペをはいた女のひとがこっちにむかって泳いできて
「夢中で逃げようとする私の足をその手がつかまえたのは、それから一瞬のできごとでした。しだいにうすれていく意識の中でも、私は自分の足にまとわりつてはなれない防空頭巾をかぶった女の白い無表情な顔を、はっきりと見つづけていました」と中学生になったばかりの女の子は書いたのが女性週刊誌に小さく載った。お母さんはそれをいつも話した。「もう知ってる知ってる!」とわたしは言った。「わたしもまだ小さかったからあなたのおばあちゃんから話を聞いたんだけれどね」
 わたしと笠原の通っていた学校の今の校舎になるひとつ前の校舎は今から百年くらい前に名前の変わるのといっしょに建てられたみたいだった。校舎の隣に小さな警察署があって、戦争の終わる間際の空襲で逃げまどう多くのひとたちが、もちろん生徒も先生も近所に住んでいたから含まれていた多くのひとたちが満員のやわらかい防空壕よりも目についた警察署のなかへするすると入っていった。
 警察署の地下は留置場になっているそこへ逃げれば頑丈だし焼夷弾にも安全だろう! と誰かが叫んだのが安心して煙と熱気でむし焼になり、黒こげ死体で見つかった数は二五〇人をこえたとむかしの郵便局長さんは話していた。
「その処理に困った市当局は、山奥へ捨てることに決めたけれど、猟師たちは反対したので一部は油をかけて焼いてしまい、残りの大部分は川岸に穴をほって埋めた」のをみんながいつのまにか残さず信じたようで、けれどそのころの爆死者調査には「前記(旅行中などで市内で爆死された方)の一一八人の明細は次のとおりです。警察署地下室死者、無縁確認三十六……」という話があった。
 誰だかわからない死体はとりあえず「行旅死亡人」と呼ばれて村や町の扱いになり、埋葬や火葬をされるのが実際の火葬場は空襲で焼けてしまっていたから次々とお寺に運び込まれる死体は穴を掘って土葬にしなくちゃいけない。留置場の知らない死体のいくつかは川原に埋葬されたのが正しいと言われているみたいだけれどはっきりしないの。「だからまだ掘ったら出てくるのかもよー」とお母さんは言った。「もうやめてよー」と言ったけれど、わたしは飼っていたカマキリが死んでしまい、庭の物干し竿の下にスコップで穴を掘って埋めたのをまちがえて掘り返すとそこにはなにもいなかった。
 ただ噂としてずっとわたしのころまで残ってしまっているのは、そのときの空襲の死んだひとたちが川で遊んでいたふたりを連れていこうとしてしまったことが学校でもたぶん知られていた。先生はだから川で遊ばないようにねと低学年の子に言ったのかもしれない。それで十分だと思ったのだろうし、でも遊ぶのは内緒で遊ぶのだったからわたしもこっそりみんなで遊んでいた。
 五時間目も終わって学校を帰った笠原はランドセルを草むらに投げると靴も靴下もいっしょに脱いで水面を蹴つったら、バシャンと濡れるわたしのランドセルを笑った。もちろんわたしはまだ笠原をうるさいやつだとしか思わなかったし、他よりうるさいやつだと思うのが笠原とそれ以外をぼんやりとわけていた。学校の裏手の川は放流もあるから干からびない夏には魚が泳いでいたそれを捕まえるのが難しくて、ペットボトルの上半分を切り取り逆さにしてつなげる簡単な罠をしかけて魚を閉じ込めてしまうやり方なんてみんなまだ知らないころだったから、必死に石を投げたりびしょびしょになりながら素手で追いかけたりしていたわたしは、ある日みんなからすこし離れたところで足を滑らせてしまった。音が突然途切れてしまった。
 きらきら揺れる水面へ顔から思い切りぶつかったわたしは鼻の先を擦りむいだくらいの怪我だったけれど、川底のたぶん視線をあげた先にゆらりと覆ってくるものがあって、それが二つの目と腕と顔だったのに驚かなかったし、喉に鼻から口から水を飲まされてしまってもすんなりと受け入れた。おかしなところはなかった笠原は川原を大きな子どもが滑っていったのがわかって、もしかしたら顔をあげなくちゃこわがれないのかとわたしは思った。
 こわくないと痛みにも立ちむかえなかった。お母さんはよく高速道路で窓から手を出して運転する男のひとの腕がちぎれてしまい、気づいた時にはもう血が流れすぎて死んでしまったのも強すぎる痛みを感じないのが危ないと言っていた。わたしはそれを思い出してみて、そのことが不安になったから両手を突き出して顔をあげるとわたしをそのまま置いていってしまった。もうくっつき離れない皮膚を離して、染み込んだ水もすっかり吐き出すなんてとても難しいことだったから仕方がなかったのかもしれなかった。
 わたしは明後日の高速バスで地元へ帰り、笠原のことも忘れようとしたけれど笠原は数日後のまだ止まない雨をベランダから眺めてしまって、なんだかいつもより水嵩が増しているような気はしていた。
 日差しは妙に鋭く、雨音にぱらぱらと反射する光が道路も閉まった店も雨の流れもみんな透き通らせてしまった。笠原は雨でも日差しのある時には洗濯物を干さなくちゃいけなくなっていたからベランダで、洗い終わった洗濯機のふたをつかんだまま倒れて流れている黒い子どものようなゴミを見つけた。とっさに玄関を見るとそこにはいなかった。
 笠原は浸水のために買った長靴を履いて道路をたぶん流れていった方向にかきわけた。赤錆のまとう長々とつづくフェンスを苦労しながら乗り越えて、草むらを進むときっと黒い子どもはいるのだった。それが二つの目と腕と顔だったのは笠原がはじめてでも何度そこにわたしはあっただろう、自分からは動かないそこにひっかかって取れない皮膚だけがすこしずつ水流によって削られるだけで残されていた。
 頬の皮はふやけてめくれ、骨が覗いているのはそこだけでない腕も胸もだった。頭皮をつかむとぬるりとつながる部分が抜けるように剥がれた。まぶたもなかったし、口は開かなかったし、それでも水に浸かっていて、先生が学校の窓から怒るかもしれない。深く掘らなくちゃ中途半端に出てきてしまう。笠原は子どもくらいの大きさのゴミが腕をつかんで離さない温度が湿気を、そのままの重みに膨らませたのがいっしょに水のなかだった。川底の石が背中をこすって何度も上と下は回転する生水を飲んでしまい、弾力は薄れ、ゴミのような大きさの子どもが笠原の腕によって水面から顔を出し、次に笠原も道路の側溝で止んだ雨のなかに乾いた唇のまま起きあがっていた。取り返しはつかなかった。
 
 
 久しぶりの雨のない日差しだった。雨は止んでから道路の乾くのにほとんど二週間がかかり、秋と冬にはほとんど雨はなかった。乾燥注意報の連続発令記録は五十年ぶりに更新され、全焼する火事が例年にない数で多発していったから加湿器がたくさん売れた。笠原は東京で住むことになるとしだいに地元へ帰らなくなったし、小学校のころも思い出すかつてのむかしにしかならず、東京の就職した会社の三歳歳上の同僚と結婚し、三歳違いのふたりの男女それぞれの子どもをもち、老いた視線で死んだ妻やひさしく会わない子どもや孫たちを描きながら、清潔な、たくさんの老人ホームのベッドに眠っている隣に立つわたしはそれでなんの問題も見当たらなくて、川のなかでじっと待っている笠原はまだそのことをすこしも知らなかったままだった。
 
 
 わたしはたぶん黒い子どもが学校の裏手の川で元気にみんなと遊んでいる。つるつると角のとれた石を積みあげて小さなダムを作っては、そこに捕まえた魚を何匹かはなしてやる。すると魚は石と石のわずかな隙間から微かに流れこむ川のゆるやかな方向を見定めて、囲いのなかで尾びれをゆらゆらと動かしながら進みも戻りもしない。空も水面も澄みわたる紅にきれいな夕日は染まり、もうすぐ帰らなくちゃいけない黒い子どもが作ったダムを壊すのはすごく決心がつかなくて、結局そのままにみんなは帰った次の日の川にはそのままのダムがあったけれど、魚だけがいなかった。穴もあいていなくて、でも少しもおかしくないつもりのみんなはまた魚を入れようとがんばって捕まえたし、笠原は大きな魚をわざわざ持ってきた虫捕り網で捕まえてくれたのがちょっとうれしかった。
 みんなで夕方を帰った。歩くうちに足はすっかり乾いた。みんなは気づいたら卒業して何人かを除いたほとんどはそのまま地元のすぐ近くにある中学校へ通った。どことなく距離は開いたみんなは部活に入ったそれぞれがばらばらに友達を作ってしまったから会っても話さなかった。一年生で一人、二年生で三人、学校が変わったり通わなくなっていた。高校受験の終わったひとたちが教室で楽しく遊んでいたそれを体育の授業のときにつかんだバトミントンのネットの支柱で殴ってしまったのが親友だった。殴られてから話してない。すごく申し訳なく思った。
高校は遠かった。もちろんもっと遠いひともいたからつらくはなかったし、遠いひとは電車で何時間もかけて通う。笠原とふたりで家まで帰った。でもすぐに笠原は部活で遅くなるから帰れない。そんなに頭はよくないし、笠原と東京へ行くだろうみたいにはいかない。笠原だけが行ってしまう。マクドナルドの二階から夕方の道路を眺めていると、黒いワゴン車が雨のなかの信号を無視して交差点をゆっくりと走り抜いていくのを見た高校の友達だったあの子は、今なにをしてるんだろうとふいにそんな夢を見ながらひとり黒い子どもは乾いた川へと帰っていく。
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