pentadecathlon
 
 
 帽子が空の上をひとつ、またひとつと飛んでいった。夏だった。寝不足だった。雲の方がねこよりも大きかった。ねこがこっちを向き、仰向けになっていたぼくが起き上がって振り向くと、またねこは帽子を投げていた。
 気分よかった。ねこも元気だった。街外れの山の上にある展望台から、ねこの麦わら帽子とぼくの茶色や青の帽子を、街に向かって投げていた。海が遠くに見えるはずだった。ねこは麦わら帽子を、ぼくの持っているぜんぶの帽子よりたくさん持っていた。十歳のころから麦わら帽子をかぶっていた。ぼくは十八歳から帽子をかぶりはじめた。二年になっていた。それもこの日にひとまず終わった。
 帽子は風でいったん雲に近づいたあと、すぐに水平を保ったまま浮くように落ちて見えなくなった。街の方角だから、これから街に帰るときに道端に潰れた帽子を見つけるかもしれない。今でも山から街に降りる坂道を下るトラックの上に乗って、街へと運ばれ、それを見つけた歩道を歩く人がよろこぶだろうから、うらやましかった。
「あと何個あるの?」
 ちょうど冬の焦げ茶色の帽子を投げたねこは、すとんと落ちて視界から外れる様子を見送ってから、ぼくを見た。
「なに?」
「もうすぐ夕方だよ」
「まだ晴れてるじゃん」
 ねこは次の帽子を選んだ。赤く細い帯のついた麦わら帽子だった。麦わら帽子だけで四十個はあった。部屋に麦わら帽子のためのクローゼットができていた。他の服はあまりなかった。
「時間では、だよ」
 iPhoneの時計は五時になりかけていた。これから帰るのに二時間半はかかった。電波が届かないから、今は電波時計じゃなかった。
「じゃあ急ぐから手伝ってよ」
「ほんとに?」
「あと二十個はあるよ」
 ねこよりぼくの方が遠くへ飛ばせた。こつがあった。最後にねこがかぶっていた麦わら帽子を投げようとすると、ねこがぼくの手から走って逃げて、自分で投げた。木に引っかかる音がした。日差しが頭の後ろに当たるのはやっぱり暑かった。帽子をかぶっていない人はいつもどうしているんだろう。からすが逆さになりながら落ちた。
 
 
 山は街の西側にあったから、日差しはすぐに沈み、そのかわり朝が早くはじまった。海から日が上った。
 道の外灯はもうつかないところが多いのを知っていた。暗い山道を歩くのは、いくら綺麗に舗装されているとはいえ危なかった。足元がわからなくて、空を歩いている気分になった。
 セミが最初から最後まで鳴いていた。荷物は行きよりもずっと少なくなっていた。ぼくの肩かけ鞄だけだった。カメラしか入っていなかったのに、使わなかった。
 まだねこは夕暮れの一歩手前の街を見下ろしていた。車と建物と人が全部混じって止まっているようだった。視力が悪かった。ここから夜景を見たことがあった。八歳だった。父親といっしょだった。背が低いから木でできたフェンスによじ上り、すごく光る道路と、百貨店の屋上にある観覧車の点滅を見つけながら、自分の家がどこにあるのか教えてもらった。家に帰り、リビングの窓から展望台の方角が見えることを確かめた。お風呂の窓からは見えなかった。リビングは窓の位置がよかった。夜だから展望台には夜空しかなかった。
「きれいだね」
 お父さんが言った。
 街の中心に花火が上がった。音が鳴らなかった。花火大会は今日だったけれど、この花火は予行練習か手違いで、音が添付されていないものだった。ねこは花火を見たことがなかった。
 二人で来た道を下りはじめた。来るときよりも足が軽くてうれしかった。
 サイレンが鳴った。冬は五時に、夏は六時に鳴った。誰ともすれ違わなかった。車道の中心を歩くのが好きだった。ねこが途切れ途切れの白線をジャンプしながら踏んで行った。五分くらいで疲れたから、ぼくが代わった。坂道だからよく飛べた。もっと急な坂になれば、飛んだことがないくらい遠くへ飛べると思った。足裏のざらざらが邪魔だった。
 ワゴン車がカーブミラーに映り、慌てて歩道に駆け上がると、ワゴン車は停車しているだけだった。ねこが石を投げた。小石だった。たぶんヘッドライトに当たった。
「おい、このやろう殺すぞ」
 痩せ切ったおばあさんが言った。
 
 
 アパートに帰ると、イケアのカタログがポストに入っていた。来年のものだった。ねこはずっとそれをめくりながら、イケアに行ってみたい、イケアに行ってみたい、と何度も言った。尻尾を振り上げた。
 イ! ケ! ア! イ! ケ! ア!
 この街にはイケアがなかった。
「なにがほしいの」
「トースター」
「パン食べないじゃん」
「トースターがないから食べないんじゃん」
 朝はいつもチーズを食べていた。パスタとそばが好きだった。ホットケーキをたまに焼いて食べることがあった。バターをいれて焼くと、あとからバターを塗らなくてもいいくらいおいしくなることを知っていた。
「トースターなら買えるよ、近くで」
「カタログに載ってないとダメなんだって」
 部屋には家具が次々となくなっていた。本棚を真っ先に捨てた。部屋では一番大きかった。ぽっかりとあいたスペースに立って、よく本棚の真似をして遊んでいた。本棚に入れるための本もいっしょに捨てたから、ねこの頭の上にテッシュの箱を乗せた。ティッシュの箱は本より軽くてたくさん乗せられた。ぼくは腕に十五個乗せられた。
 ねこがげらげら笑って止まらなくなった。
 本棚の次はイスを捨てた。その次はもちろん机だった。机を捨てるまでのあいだ、二人で机に座り、膝の上で食事した。扇風機、冷蔵庫、鏡、ベッド、蛍光灯と順番に捨てていくと、残ったのはノートパソコンだけになっていた。床で眠った。枕はベッドを捨てるときにも捨てずに、最後に部屋を出る日に捨てることにしていた。
 ぼくもねこも、帽子を捨ててしまったから、滅多なことでは外に出られなくなってしまった。パソコンで、街の残り日数を見てみた。急に変動することもなく、二日だった。
 クローゼットの中にはちみつがしまっていた。きな粉と砂糖もあった。それで十分過ごせそうだった。二人ともすでにお腹が減ることもなくなっていた。
 何度目かの移転だった。ねこは六回目、ぼくはたぶん五回目だった。どんなにすぐれた機械でも、いつかはごみがたまって動かなくなる。最初はうまく取りのぞけたとしても、細かな隙間に入りこんだごみは歯車の噛みあわせをぎこちなくしてしまう。街の速度が落ちれば落ちるほど、ふいの停止や遮断の確率が高くなり、落ちついた生活なんてとてもできない。だから定期的に街を移らなくちゃいけない。
 特に困ることでもなかった。昔から、同じ場所や同じ集まり、同じ季節に居続けることができなかった。夏なら冬が欲しくなったし、冬なら夏が楽しみになった。季節のめぐりかわりが一週間で来て欲しかった。
 毎回新しい街につくと、新しい家具を買っていた。そのためにも、後腐れのないよう持ち物や家具をぜんぶ捨てていた。それから移転した。新しい本棚に、新しい本を選んで並べ、新しい帽子を買った。今度の街では小さいころから帽子を買い続けようと思っていた。ねこもきっと最初からまた麦わら帽子を買うだろうし、小さなサイズの帽子がだんだんと大きくなっていくのを重ねて見るのは楽しかった。
 それから、新しいいぬも買わなくちゃいけなかった。そのころ飼っていたいぬは死んで展望台のそばに埋めた。ねこが名前をつけた。クッキーという名前だった。ミニチュアダックスフントのクリーム色だった。
「なんでクリーム色なのにクッキーなの?」
「思いついたから」
 成長するにつれ、いぬは澱んだ焦げ茶色になっていった。かわいかった。すぐに大きくなって、ねこよりもぼくよりも大きくなった。しつけができていなかったから、よく吠えた。メスだった。鳴き声が近くの駅に立っていてもよく聞こえた。アパートの隣近所に誰も住んでいなくてよかった。
 死んだのは街の移転が決まった二日後だった。急死だった。地下鉄の駅員のバイトをしていると、昨日よく眠ったはずなのに、ぐらりと眠たくなってしまい、ガラス戸に頭をぶつけた。目の見えない男の人に笑われた。そのとき見ていた夢が、嘔吐して舌を喉につまらせて死ぬところだったから、メールでねこから、いぬがカーペットの上で死んでいたことを言われると、その日からずっと目が覚めていないような気持ちになっていた。
 ねこが眠ってから、夜ならいいと思って、外に出た。さすがに山までは歩くつもりがなかった。展望台の方を見た。ここからでも展望台が見えた。一本だけ立つ外灯が、きっと展望台にあるものだった。アパートの前の外灯もまだついていた。虫が塊になって渦を巻いていた。蚊に刺されたことがなかった。
 
 
 花火が海のそばで上がっていた。ねこは眠っているから聞こえなかった。ずっと切ったままにしていた花火の音声をつけると、花火が急に近づいてまわりが真っ白に光るのがわかった。こんなに近いとねこが起きてしまうと思って音量を下げた。
 もう花火は終わりの数本しか残っていなかった。せっかくだしきれいだから見た。バン、と辺りが照らされた中に、向かいの一戸建ての二階のベランダから花火を見ている親子が見えた。楽しそうだった。虫が花火が鳴るたびに大きく散らばって、すぐにまたぎゅっと凝縮した。
 ぼくがアパートにもどると、しばらくして窓に電気がつき、一時間たって消えた。満月がきれいだった。
 
 
 朝になると荷物を全部持ってアパートを出た。途中で枕を用水路に捨てた。小学生にじろじろ見られた。車はいつもと比べて減ってはいても、普通に運転している人たちがまだたくさんいた。タクシーが走ってきたから捕まえた。若い男の人だった。
「山まで」
「どの山です?」
「展望台の」
 はいはい、とタクシーはぐらりと揺さぶられながら車道にもどった。今見てみると、そこまで若い男の人でもなかった。父親くらいだった。
「花火ですか?」
 運転手の人は黄色の信号を右折しながら聞いた。ピンク色のTシャツを着たサングラスの女の人が、黒ねこを散歩させながら赤信号を待っていた。
「昨日終わったじゃないですか」
 ねこがこっちを向いた。眠そうだった。
「いやいや、今日もですよ」
「今日って、間に合うんですか」
「間に合ったらやるし、間に合わなかったら延期でしょう」
 タクシーで展望台のそばまで送ってもらえた。花火があるなら人がたくさんいるかもしれないと思ったけれど、いなかった。片腕のない羊が跳ねるように逃げて行った。展望台から街を見下ろした。いつもと変わらないようだった。遠くから銃声が聞こえた。すずめを追い払うためだった。iPhoneの時計を見ると、八時で止まっていたけれど、たぶんもう昼過ぎだった。山の斜面の木にねこの麦わら帽子がひっかかっていたのが、すごく小さかった。
 ねこはいぬを埋めた場所に駆けよって、しゃがんだ。ぼくもしゃがんだ。きっとここだった。木の根元に埋めたのは間違いないのに、木は山だからいくらでもあったからわからなかった。でもねこはわかっていた。木の表面をありの列が覆っていた。かまきりを木の上に運んでいた。
「まだいるかな」
「いるんじゃない?」
 ねこはとがった爪で木の根元を掘り返してみた。ぼくも手伝った。そんなに深くは埋めなかったはずなのに、なかなか出てこなかったから、少し場所をずらして掘った。後ろを大きなバスが走っていった。客は小学生の男の子だけだった。山の向こう側から、街外れの空港に行く路線だった。一日に四回走った。
「あ、触った」
 どれ、とぼくの手元を見た。いぬのしっぽだった。
 二人でゆっくりと胴体、足、顔の順番で掘った。化石を発掘するようで楽しかった。日差しが頭のてっぺんを焼いていて、帽子が欲しかった。いぬは元気そうだった。目を開いたまま、口からみみずが出ていたから口の中にもどしてあげた。
「おいしそう」
「いや汚いでしょ」
 まぁね、と笑った。ねこも笑った。いい日だなぁと思った。
 いぬが空を見ていた。
 電線があった。こんなところに電線があるとは思わなかった。きつつきが三羽とまっていた。きつつきを見るのは初めてだった。カラフルだった。黄色も紫も青もいた。ここで眠っていればいい気がしたから、ねこにもそう言うと、ねこもそう思っていたからうれしかった。
 街ではいろんな人が部屋の片付けをしていた。ここは展望台から少し山の中に入ったところにある木の根元だった。せみが二匹鳴いた。ミーンミンとジーリジリしか聞いたことがなかった。土が少し湿っていた。花火の鳴る音がした。やっぱり時間が間に合わないから、夕方にもなっていないのに花火が上がった。打ち上げておかないともったいなかった。あっちには持っていけない。
「どっちから聞こえる?」
 ねこは木にもたれかかったままきょろきょろと空を見回した。
「どうせ昼だからよくわかんないよ」
「どっちだっけ?」
 ぼくは街の方向を指差したけれど、花火の音はそっちからは聞こえなかった。気のせいかもしれなかった。音は空からしか聞こえなかった。ヘリコプターが飛んだ。信号機が三秒ずれた。トラックが後ろに下がった。こんなときいぬがいれば耳がいいから便利なのにな、と思った。いぬを埋めるときに左耳がちょっとだけ裂けたのがもうしわけなかった。
「あ、わかった!」
 ねこが叫んだ。それから走った。ぼくは眠りそうだった。
 
 
 気づけば蚊がたくさん足や腕を刺していた。
 
 
 一年前にいぬのことを思い出した。それまではまたねこのことで必死だった。会っても別れるかもしれなかった。
 もちろんそれでもいつかは会えるのだけれど、生まれてから会えるまで七年はかかった。長かった。退屈だった。小学校で同じクラスになって、下校のときの班分けをしたときに同じ班になって、そのとき初めて
「あ、会った」
 と思った。やっぱり麦わら帽子をかぶっていた。それからまたいっしょにいた。
 いぬのことをねこに言うと、また飼いたいと言うから、いぬを買いにいった。近くのホームセンターだった。
 ガラスケースみたいな個室が縦に二個、横にたくさん並んでいた。子どもが表面のガラスをバンバン叩いて叫んで笑って子いぬを怖がらせていた。いぬもねこもさるもいた。熱帯魚もいた。うさぎもたしかいた。はりねずみが壁に何度もぶつかっていた。店員がねこを見て、ケースから逃げ出したのかと思い、片付けようとしないか、ぼくはハラハラしていた。ねこはそんなことも知らずに、ずっと一匹の子いぬを見ながら、
「これ似てない?」
 と言った。ぼくも似ていると思った。きっと本人だった。
 三日後にそのいぬを買った。またクッキーと名前をつけた。よく食べた。朝も昼も夜も食べた。そんなに食べたら死ぬと思った。よく走り、よく吠えた。すぐにねこやぼくよりもまた大きくなった。
 
 
 おととい、病院に行った。前の街を見られるようになったとテレビで言っていて、それから半年が過ぎていた。実用化したのは今月のはじめらしかった。
 病院にはぼくやねこと同じような人たちがたくさんいた。みんな厚着をしていた。秋だった。もうすぐ冬になるらしかった。エアコンやストーブは早かった。
 診察室で、とんぼの顔をした男のひとに、前の街を見せて欲しいと言うと、もうわかってる、みたいな表情で
「いつのです?」
 と言われた。考えてなかったから、とりあえず言おうとした。
「前のです。えーっと、五つ前」
 これですね、とすぐにパソコンの画面に表示された映像を見せてくれた。ウインドウが小さかった。デスクトップには山が見えていた。川が流れていた。空がきれいだった。うまが歩いていた。ヒマラヤ山脈だ、と思ったけれど、ヒマラヤ山脈がどんなものなのか知らなかった。とんぼのひとが全画面表示にしたから壁紙は見えなくなった。
 五つ前の街は古くも新しくもなっていないようだった。全景だった。空から見ていた。建物があって、道があって、車が走っていないことくらいしかわからないけれど、懐かしかった。こんなにビルって小さかったんだ、と思った。どこがみたいんです? と言うから、展望台を、と言った。でも展望台じゃ伝わらないかもしれないから住所を言った。とんぼがそれを打ち込んだ。すぐに表示された。
 ねこが画面に触ってあの木の根元を探した。よく覚えてるなぁ、と感心した。木の根元より先に、ぼくとねこが見つかった。木にもたれかかって死んでいた。
 画面の端から死んだいぬがやってきて、ねこの顔を舐めた。捨てきれてなかったんだ、と思った。画面を閉じてほしかった。恥ずかしかった。いぬのお腹は虫でいっぱいになっていた。あばら骨の隙間からぽろぽろとねずみが落ちた。目はしっかりと開いていた。
 ぼくにいぬが近づいた。左耳はもうなかった。土ぼこりと落ち葉に埋れたぼくの首のにおいを嗅ぐと、ぼくがいぬの頭を撫でた。手が骨になっていた。とんぼが笑った。ねこがいぬの尻尾を拡大した。毛がほとんど抜け落ちていた。うしろから工事現場の音が聞こえた。ナースの声が聞こえた。
「これ、持って帰れますか?」
「映像ですか?」
「いえ、いぬです」
「あーはい、データですから」
 
 
 四日後に受け取ると、ねこもすごく喜んでいた。ぼくもうれしかった。家ではいぬが死んだいぬとじゃれあいながら、ねこがサーモンとレタスのサラダを食べて、そんなに大きさは変わんないな、かわいいな、と思った。ぼくもそう思った。隣の部屋から子どもの泣く声が聞こえた。ドッグフードのお皿をもう一つ買わなくちゃいけなかった。
 二人が幸せそうだったから、いぬも幸せだった。
 
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