lenticular
 
 
     c
 
 
 7月にしては久々に涼しい朝だというのが、車のフロントガラス越しにも見て取れるほど、道路が冷たい。
 鸚鵡が5羽、信号機の上に敷き詰められている。通勤途中に狭い5叉路を通るのだが、そこの横断歩道で赤いランドセルを背負った1人の女の子を見かけた。Tシャツの袖から覗く腕は、肉が削げ落ち、肘や手首の関節がとがった金属の蝶番になっているのが、皮膚の表面にはっきりと浮き上がる。
 今だ眠気が払えないせいもあるのだろう。教員歴23年となった舘脇彩音は、19年ぶりに湯山小学校に赴任することとなった今年度、4年1組に配属され、1学期の成績をつけなければならない初夏には、平日連夜、退勤が午後7時を過ぎている。
 1週間に1度、木曜日に行われる教員会議は、昼間、校庭に電子レンジが落ちていたことで持ちきりとなっていた。さすがに舘脇彩音にとっても初めての経験だったのだが、近頃距離が離れ気味になっている娘との話題が増えたと、内心ほくそ笑みもする。電子レンジは2014年型で、半身が砂に埋れていた。わずかに傾いた内部には、焦げたりんごの臭いを漂わせるジェル状の液体が溜まっている。
 翌日、土曜日を迎えた舘脇彩音は、最高温度が47度に達する昼間に、夫と2人の息子をおいて、仕事が残っているからと、走行距離が15万キロメートルを超えつつある水素電池無人自動車に乗り込んだ。車内に搭載されているカーナビゲーションシステムの三次元ジェスチャー認識機能を介して入力された到着地点は、日本上空を周回する七機体制GPS衛星へと送られた信号によれば、愛媛県伊予郡砥部町上原町240、つまり県内唯一の動物園である愛媛県立とべ動物園となっている。
 走行中、4体の食用バッタを轢き、フロントガラスを拭く2本のワイパーは、今日も軽快に往復する。
 動物園は休日にも関わらず客がまばらにしかいなかった。半年ほど前、ドーム状の屋根を設立する計画が発表され、その完成まで、つまり2年間は動物たちは全日室内での飼育となったため、本当に動物好きの子どもを持つ親でない限りは、2年後のドーム設立を待つのだろうし、たとえ客が来ようとも、室内の細い通路を歩く動物園散策は、視界の狭さから自分以外の客を目にする頻度が減っていた。1ヶ月に1度、月ごとに1週ずつずらした土曜日に密会する相手とは、それまでの待ち合わせ場所だったフラミンゴの檻の前から、オオサンショウオの水槽の前に変更することで、約束はついていた。今回はその5回目の密会になる。
 泥のような液体に沈み、手前のガラスに顔を押し付けたまま動こうとしないオオサンショウオを眺めながら、舘脇彩音の内面は、点線に縁取られた吹き出しに書き込まれ、密会相手が1年前の小学校同窓会で再開した人物であることが、あらすじを兼ねて語られる。当時はそこまで親しくはなかった彼も、今では年相応の落ち着きと笑顔を持っていて、少しかっこいい。話していて安心できる。それに彼は、高校生のころに不意に目覚めたらしいが、数字選択式宝くじの当選番号を的確に予測する能力を持っているとのこと。そんなよくある話……と半信半疑だったものの、7つの数字とはいかないまでも3つほどなら確実に当ててくれる。4つとなると彼なりの確信を持つのに多大な労力が必要らしく、隔月の当選となるが、それでも4つの数字をストレートで当てれば賞金は70万円を超える。家族には内緒の小遣い稼ぎとして、彼の要求を飲み、当選番号と引き換えに動物園で定期的に出会うこととなるのだが、オオサンショウオをガラス越しにそっと撫でる舘脇彩音の頬には、皺とは別のタッチで3本ほどの斜線が加えられ、頬の赤らみが表現されており、今回こそは願わくば彼と、いやもしかしたら出会った当初から彼女と彼はそういう仲、などと適当な推測を誘う。40代半ばであるはずの顔にそもそも皺は見当たらず、2013年の価値観からすればそれは20代後半とさえ見なし得る造形だが、1946年に連載が開始された作品内の男性は、54歳の設定とは裏腹に、70代ではないかと多くの人々によって述べられるそれと類似した現象だろう。
 次のコマではすでに彼が舘脇彩音の背後に立っている。明日の番号はこれだよ。舘脇彩音は手渡されたメモ用紙に目を通す。
 
 第120417回数字選択式宝くじナンバーズ21日
   【ナンバーズ3】 ストレート 444
   【ナンバーズ4】 ストレート 9991
 
 ――へえ、すごい数字ね。でもなんで? いつもナンバーズ3かナンバーズ4のどちらかじゃない
 ――たまにはこういうこともあっていいと思わない?
 ――そうだよね、すごい! とまるで小学生の頃に戻ったかのような心地ではしゃごうとするが、突然、上空と地下から、洗濯機で水を攪拌するような音が何重にも聞こえ、舘脇彩音は停止してしまう。天井、床、それから後ろを振り返ると、3メートルほどのシロナガスクジラが半身だけ水槽に浸っている。小さく波打つその背中にはタイセイヨウクロマグロの群れが跳ね、間を縫うように50センチメートルのスイマーがクロール姿で泳いで行く。舘脇彩音は宝くじ当選番号の書かれたメモを握り締め、貼り付けた笑顔を微動だにせぬまま通路を入り口側とは反対方向に走り始める。
 生徒たちの絵が、今朝に予告されていた嵐によって濡れ飛ばされてしまう、それは絶対に防がなければならない。まだ3年目教師のわたしはどうなってしまうかわからない。放課後午後6時の校舎内をスニーカーで走る舘脇彩音を誰も追いかけようとはしない。左右からは気配のない、直上直下のみに絞られた嵐の流入、増加する数百の中心を備えた攪拌運動の流入が、舘脇彩音の筋繊維を1本ずつほどいていく。
 足元を、レゴブロックでできた犬やクマやウサギが歩いている。前転だって側転だってできる。素早い身のこなしを表現するために輪郭を曖昧な円形にしていたところ、彼らから飛び散った赤、黄色、緑の着色が、白黒だった絵柄の4隅にまで飛び散る。それぞれが混ざって別の色に変化したりなどはせず、ざらついた画面表層を断片的な直線、場所によっては連結して一定の厚みを持った長方形として抉り取る。その色彩のブロックから滲み出るように周囲の劣化が進行し、コマとコマの間のスムーズな動きは失われ、遂にはたった数秒間だけの終わりない反復再生にまで至る。図工室の窓に吸い込まれていく1枚の絵、吸い込まれ切らなくとも低気圧前線は流れ去ることもなく、視界から逃れる寸前を何度も何度も繰り返す。そう、それで爆発に――なにかにぐらぐらと揺さぶられている気がする。暗いからもっと明かりが欲しい。焦げ付いた右手と右太腿がちぎれて床に落ちている。あれは誰のものだろう。腹部のあたりを巨大な鋏に掴まれている。高々と掲げられ、頭と爪先が床に付きそうで少し怖い。
 もはや視神経を動かす体力は残されていないのか。彼女の代わりに言うならば、金井李華子が頭部の巨大な男の子を補食し、融合、進化して生まれたロブスター型パターンが、湯山小学校正面玄関において、何十人もの舘脇彩音を複数の宇宙の静止した瞬間から誘い込み、大量の皮膚を掻き集めている。ロブスターの頭上には、幼少時から高齢時に至るまでの舘脇彩音、向井洞士および高畑郁男それぞれの顔面写真が、高速でシャッフルされ表示される1枚の画像データとして浮かび上がっている。解像度は変わらぬまま、表示倍率は秒速95%で変更され、収縮した画像の周囲に同等の大きさの、これもまた顔面のシャッフルされ表示される画像データが配置され、表示倍率が変更され、次第に1つ1つの画像は、色彩の安定しないドットと化し、全体として新たな顔面――写真にも関わらず表情豊かで年老いたり若返ったりする顔面――を形成するが、そこに舘脇彩音、向井洞士および高畑郁男の面影はない。むしろ金井李華子にパラメータとして近い顔面構築の周期的運動の中で、飛躍的にデータ量ばかりが増加していき、歪んだ計算負荷分布は、靴箱や傘立てや床の木目、壁に貼られた生徒たちの鶏の絵や地球温暖化対策推進ポスターの色彩を、ロブスターの頭上の顔面にねじ込む。更に大量の舘脇彩音が別の物理法則下の静止宇宙から呼び出され、皮を剥ぎ取られ続ける。
 こうした非人道的印象を帯びた視覚イメージに還元可能でもある擬似多宇宙間計算機のエラー時特有の情報処理過程は、例えば株式市場におけるフィードバック・アルゴリズム取引に反対し、再び人間の手に主導権を、と主張する政治家や人権団体の格好の的となるわけだが、現在普及している擬似多宇宙間計算機のすべてで、エラーの代表格でもある量子もつれの突然死が生じ次第、内部計算を完全にストップさせるためのプログラムが即時注射されるため、非公式なもの以外はこのような事態に陥る危険性は限りなく低く、それゆえ当事者たる金融市場関係者のほとんどは、なんら聞く耳を持とうとしない。先日、主要企業の株価の多くが前触れもなく急変した際も、公式に提出された報告書においては、原因はとある新興企業のサーバールーム内に潜んでいたねずみと見られる小動物が引き起こしたケーブル断線、それによる小さなシステム障害が波状的に広まったものであるとされ、人々の失笑を誘ったばかりだ。
 1階の正面玄関から東側をロブスター型パターンが巣として制圧しつつある中、荒川裕司は田越直哉を引き連れ、体育館裏の教員駐車場にあらわれる。プール脇に細長く設けられたそこには2台の自動車しか止まっていないとはいえ、ここから一般道に出るための門をくぐることへの期待はある。荒川裕司は運動会でもリレーランナーに五年連続で選ばれているだけあって、田越直哉は喉が真っ白に染まっていくのを感じられるほどに走り続けても、荒川裕司との距離は20メートルを超えるほどだったが、ようやく追いつき、荒川裕司が門の前で自分を待ってくれている。
 田越直哉は膝に手をつき、噎せながらも門の先を見る。そこには光の反射しない空間が、壁に塗られた落書きのように立ち塞がり、学校側から吹く風が、門の先で打ち返ってきて、再びこちらに吹く。足元から聞こえるジリジリという虫の鳴き声の重なり合いと、焦点の合わせられないことが、足元をふらつかせる。恐る恐る手を差し伸ばし、暗闇に触ってみると、ゴムのように硬い弾力を持って皮膚にめり込まれる。空に月はあるが、それも赤く染まった月のようなものであり、他には星も雲も飛行機1機すらない。
 そんな、これじゃ、どうしようも……戸惑う田越直哉は荒川裕司に尋ねかけるしかないが、彼は、おー、おーおー、と、そればかりを言っている。眼球が月明かりに丸まり、2周、3周と回転する。そして4秒ほど静止したのち、たった5秒間で748字もの言葉をまくしたて――かき氷にみかん氷はパンダの搾りたて出産のために午前0時38分に電波の干渉で(中略)を送る羽生挑戦者が三六手目を燃やしたスコップや使用済みキャンディーについて考えていきたい――またもや沈黙する。かと思うと、急に動き出し、にっこりと笑顔になる。
 ――ほらほらなにやってんだよ早く中継しろ
 荒川裕司は田越直哉に自分のiPhoneを押し付ける。
 ――いや、電波が届かないんじゃ……
 ――無線LAN? 無線LANってどこだっけ
 右手と左手を共に直角に曲げたまま正面に上げ、カク、カク、と全身を前後に傾けながら半歩ずつ前進していく。かと思うと、ホウ、ホウ、と威勢のいい声を発して垂直に飛び上がる。膝はわずかに折り曲げたまま、脹脛と地面の角度を維持して飛ぶ。
 その隣で、田越直哉の意識には、こっくりさんを行う際に気をつけなければならない五つの項目が浮かんでいた。
(1)一人でやってはいけない
(2)最中に十円玉から指を離してはいけない
(3)帰ってくれるまでやめてはいけない
(4)使用した紙は燃やす
(5)10円玉はその日のうちに使用する
 荒川裕司が行った五秒間の語りは田越直哉の聴覚には通常の発話の約40倍の速さで聞こえてしまい、単なる奇声としか思えず、録音音声を30分の1倍速再生した上で音声認識ソフトの解析を加え得られた先の発話内容も、田越直哉にはほとんど伝わらなかっただろう。ただでさえ混乱している頭の中では、無線LANの届く範囲と言えば具体的な電波の分布図を描けるわけでもなく、「算数準備室」「図工室」……と登記されるばかりだった。
 
 
 ここからA-HOR0518の計算する記述者は二手に分かれている。
 どちらも無線LANが届く、しかし正面玄関を通らずに辿り着ける場所として、1階西校舎端から1、2年生教室前を進み階段を上って4階まで行き、東校舎に移って音楽室で無線LANが届くかどうかを確かめる、もし届かないなら3階の社会科準備室で通信を試みる、といった方向性からは外れる。それが実行に移され成功した場合、無線LANルーターは一階もしくは2階にあることになる、おそらくは一階の保健室か職員室にあることになるのだが、この選択肢を選んだ荒川裕司と、突然駆け出した彼に引きずられる形の田越直哉は、四階東校舎端のL字部分が三階の図工室における上方への爆発と火災によって一部が崩落、炭化し始めているのに出くわし、奥に進むのは躊躇されて四階と三階の間の階段の踊り場で無線LANの受信を確かめていると、正面玄関から再び東校舎を上階へと広がりつつあるロブスター型パターンの侵食範囲に触れたことで、二人は逃げる間もなく皮を剥がれ、無線LANルーターの位置特定には至らない。
 一方で、二手に分かれる記述者を含んだ選択肢、すなわち校舎内を通らず校庭の周縁を慎重に進み、東校舎端の外壁に寄り添って無線LANの受信を確かめる荒川裕司と、突然駆け出した彼に引きずられる形の田越直哉は、教員駐車場から西校舎に入ることなく中庭に向かう。水不足が例年問題視される四国特有の雨水貯水タンクが破裂したために水浸しだが、中庭以外の学校敷地内は、夕方まで降っていた大雨にも関わらず熱帯夜で乾燥している。折れた3本の木を跨ぎ、転がっているアサガオの鉢植えを避け、正面玄関を外側から、内部は光量が足りず様子をはっきり伺えなくとも、暗闇の奥行きの濃淡を遮る物がいないことを確信できた上で、小さく丸まって滑るように正面玄関前を走り抜け、扇状に広がった外階段を26段上ると、見慣れた校庭の、昼休みのような喧騒が目の前に開けるが、喧騒はいくら見慣れたものであったとしても、月明かりの平坦さの下では、決して自然な光景とはなりえない。
 校庭では、種類の異なる物体の動きが、檻の壊れた動物園のようにあふれかえり、その蠢きが、何らかの制限のためか浮かび上がらせるドーム状の輪郭線は、細胞膜のように泡立ちつつ、校庭の上、もしくは見る角度によっては地下に、許容量を超えて詰め込まれた小さな虫かごの姿を重ねさせる。ドーム状の領域の上層ではキリンやショベルカーのような首の長い個体の頭部が、中間層では鳥に似た翼で滑空している個体が、下層では敷地内を端から端へゆっくりと横切り交差する巨大なゴムボールたちが、それぞれ群れとして配置され、地面はある部分は隆起し、ある部分は巨大な穴が穿たれていることで、ボールは滑らかに上下にも動き、走り回る小虫を潰して行き、時には表面にこびりついた小虫の死骸もろとも地底ないし天上に落下する。
 子どものおもちゃのように視点に応じてパタパタと地上-地下を凹凸反転するドーム上の総体、その中のあらゆる運動が、他の個体を淘汰しつくそうとする気配をうかがわせる。物と物の隙間から山の手線の緑色に塗られた車両が見て取れる。小虫が何匹か手前に這って来れば、それが小虫などではなく鬼ごっこをしている子どもであり、その内の何人かは黒井龍介、山村隆、辺見玲奈と、名前を羅列し区別することができる。同時に鬼ごっこだけでなく、ドッチボールや氷鬼やどろけいも行われているらしく、警察が外野になり、凍った子どもが仲間に肩を叩かれると泥棒になり、缶蹴りの缶を守る3人の田中空が横幅3メートルの無人オートバイに跳ねられる。無人オートバイはヴェロキラプトルの成体と激突する。
 戦争で亡くなった校長先生と生徒8人が運動場を行進している。すぐ側を駆け回る手長猿の頭上には警察に腕を掴まれたことで数字の十が表示され、警察が数え下ろす声に同期して数字は0に近づいていく、そうしたカウントダウンがあちらこちらで遠近構わず行われる。平面化したダイオウイカが風見鶏式に回転しながらドーム下層を周回し、球体の断面に正3角形の頂点を描くように等間隔で山積みされた80分の1スケールの東京タワーたちをすり抜ける。ジャングルジムの前では歴代の校長先生の上半身だけが並べられ、今にもドミノ倒しにされる寸前のまま放置されている。校庭の中心から少し南にずれた地点で20メートルの高さの小山が設けられている。その表面を覆うのは30センチほどの杉の木であり、それは湯山小学校校舎裏の、何百本もの手が生えた石手川の向こうに聳える皆片山に極めて酷似しているが、山の中腹では山菜採りに出かけ遺体として見つかった男性が林道脇の斜面に横たわり、収容に向かっていた警察官2名、市役所職員1名、会社員1名もまた体長約1.5メートルのクマに頭部を噛まれ助けを求めている。
 空中に浮遊した惑星原始の火山たちが汚泥を吐き散らす。とぐろを巻いて交差する高速道路を夕焼けの雲の平板さが疾駆する。鼓膜を擦り付けるような爆音が響いたかと思うと、ドーム状の蠢きにおける主観的錯視としての細胞膜的輪郭線の内側がプロジェクタースクリーンのように模した上空を、欧州アリアンスペース社製ロケット〈アリアン6〉が横切るが2021年打ち上げ予定ではなかったか、日本は種子島宇宙センターが高緯度にあるがゆえに自転速度が赤道付近と比べて遅く、ロケットの加速に必要な燃料が多い。分厚い飛行機雲を後ろから超大型ロケット〈アリアン5〉がなぞっていく一万枚の有機ELパネルを使った1000万画素の宇宙は、断裁された処理のなかで鳥のように浮かび、幕のように破れ、石炭のように輝く10^10^118メートル先と交信する。
 それらすべての校庭の傍で、東校舎端の壁にもたれかかるように隠れながら無線LAN接続を試みている荒川裕司と田越直哉が、まだ校庭に辿り着いたばかりの荒川裕司と田越直哉の視覚野に、ドーム状組織体を通して微かではあるが刻まれる。薄笑いを浮かべつつ興奮状態でiPhoneを操作している田越直哉の様子からして、無線LANルーターは東校舎端の校舎外でも届く位置にあったようだが、荒川裕司は肩幅に足を開き、両手を背中側で組んだまま、首だけを垂らして動かない。
 動画中継が始められると、まず電波に乗るのは窓ガラスが突き破られる音となる。
 節を持つ甲殻類系の太い脚が、職員室の廊下の窓から1本伸び、3つに開く先端の鋏の内側には、夥しい量の眼球と、それに囲まれる形で、これもまた3本の鋭利な歯が備わった口が、発達している。可動域の広い節が複数連なることで、柔軟に周囲を探索し、獲物を探すことができるのか――咄嗟に校舎裏のブナの木の背後に隠れた田越直哉には、目では見られずとも、荒川裕司が見つかって捕食された気配がする。
 腐った水槽にホースで水を注ぎ込むような音がいつのまにか周囲を満たしている。泣き出してしまいそうでも辛うじてまだ泣いていない。
 ブナの木は細く、あちらからしたら肩や腰や踵が隠れていないに等しいが、背中に接する樹皮を大きなカブトムシが1匹這い上がっていたとしても、田越直哉は触れようとはしない。掌が汗ばみ、腕の筋肉が強張り、小刻みな震えによって荒川裕司のiPhoneが、田越直哉の手から落下する。
 木の根にぶつかり、校舎裏には軽い衝突音が、動画中継には皮膚を破るように重い音が、それぞれ響いたとき、田越直哉は勢いよく駆け出し、甲殻類系の太い脚もそれを急速に追う。
 いや、甲殻類系の太い脚には細かなセラミック製の繊維が生え、蜘蛛を模した彫刻のようだと言った方が適切だったのかもしれない。地下水脈化していた2つの記述者もまた、急速に明瞭になってくる――甲殻類系ないし蜘蛛のような太い脚の先端は、田越直哉と離れた距離=6メートルをわずか数秒で詰め、後頭部に触れ、田越直哉の掠れた叫び声が発せられる。
 その叫び声は、2018年7月13日の放課後、iPhoneで撮影していた荒川裕司と向井洞士の聴覚、さらには録画中のiPhoneのスピーカーにも届いている。
 2人は顔を見合わせ、急いで録画を止めて、再生すると、確かにそこにはモザイク状の白い影、子どものようにも見える全身がカメラに向かって走ってくる、そして叫び声とともに霧散する映像が保存されている。
 荒川裕司と向井洞士は、喜び勇んで、さっそく手に入れた心霊動画をYouTubeにアップする。容量は大きくなってしまったが、荒川裕司が自宅から持ち出した無線LANルーターによって、適切な速度でアップすることができる。
 しかし、翌日、荒川裕司と向井洞士のTwitterアカウントには、次のようなリプライ、または非公式リツイートが寄せられる。
 ――これ、パクリ。こっちの方が30分早くアップされてる。騙されないよう
 添えられたURLを開いてみると、確かに別のアカウントが、全く同じ再生時間、全く同じ内容で、2人の動画をアップしている。荒川裕司と向井洞士の共有アカウントがアップする30分前、つまり撮影する15分前に。
 これが記述者の一方であり、2人は十分に悔しがっているが、もう一方では荒川裕司が目を覚まし、自分が箒にもたれかかったまま居眠りをしていたことに気づくそこは、西校舎3階の社会科準備室となる。なんでここにいるんだろう、授業が終わって、それから……と記憶を辿っている内に、「G線上のアリア」が流れ、荒川裕司からすれば見覚えのない生徒2人が片付けを始め、自分の周りに集まってくる。ひとまず求められているらしい班長としての役目を思い出し、その日の反省点をあげさせる。「特にありません」という意見で一致を見せ、彼らは5時間目、もしくは下校の準備のために、それぞれの教室へ向かう。校舎全体に満遍なく散らばった人々が、ゆっくりと特定の場所に集まっていき、ざわめきも収まると、チャイムは午後1時45分を告げる。
 教室に戻って来てようやく、荒川裕司は先生にも同級生にも、戸惑うことなく接することができはしても、窓の外に広がる初春という季節がどうしても慣れないまま、夏になれば秋を、秋になれば冬を、冬になれば春を、日々のリズムとして覚えずにはいられない生涯であることが、徐々に認識され始めるが、わずか10年ほどしか生きてこなかった世界の歴史について、それとはひと季節だけずれたのかもしれない世界との照合をするには、限界があっただろう。
 2002年度3学期における市立湯山小学校で、奥山先生の管轄のもと社会科準備室の清掃担当となった荒川裕司は、下級生の山中徹が掃除中にくまのプーさんのぬいぐるみを見つけ、その中に何か四角く硬いものが隠されていることを指摘するのに対して、1年生の言うことになどまるで興味を示さず、黙り込んだまま考えに浸っている。
 万が一にもそれが、荒川裕司が2018年の自分と今の自分の関係にうすうす勘付いていながら、こちらには気づいていないふりを続けていることのあらわれであるとして、あの時の無線LANはいったいなんだったんだろう、自分はなぜここにいるんだろう、いつかこの学校内に無線LANが敷かれなければならない、少なくとも27歳になるまでに――などといくら密やかに決意を固めようとも、5センチ四方の、それもバッテリーの何年も切れることのないルーターの発明を、後年の彼自身も含めて、誰もが幼い空想として受け止める他ない。
 
 
 そうして各々の記述者は、何度繰り返したか知らぬ視聴を終え、もう1度再生するか、それとも1旦別の作業に移るかの選択を強いられることになるだろう。
 どちらを選ぶにせよ、同様の帰結、すなわちなぜA-HOR0518が地球での10年間を反復的にシミュレーション計算し続けていることで間接的に生じた現在が、記述者の住む地点、たとえば4億年前の火星や10億年後の水星などに存在し、A-HOR0518内のものとは独立して時間を進行させ、にも関わらずそれを析出する――つまり位相が隔てられているか、そうでなくともはるかに距離の離れた場所にあることは間違いないだろう――A-HOR0518の可能性を嗅ぎ取ることができたのか、そこに疑問は集中する。
 A-HOR0518と仮に名付けられた計算機が、決して10全たるシステムなどではなく、途中でエラーを起こし、自らの属するものとは異なる物理法則の流入を許してしまったがために放棄されたジャンク品であることは、記述者の目に映るサイン――それは同じ人物と地下鉄で3日連続出会ったとか、星座が1つだけ赤茶けて見えたとか、はたまたあらゆる場所に数字が見えすぎるといったような経験かもしれない――から推測されうるのだが、いくら納得のいく筋道を立てられたとしても、A-HOR0518が辛うじて持続させる時間を証明できないまま、記述者は再び再生したりもするのだろう。
 
 
 **********************************
 
 
 2023年5月31日11時59分、スタジオアルタ前。
 平日正午に放送されているテレビ番組のオープニングタイトルのバックに、この場所の様子が1瞬だけ映し出されるため、偶然通りかかった通行人たちが、せっかくだからと群がっている。
 高校生くらいにも見える若者たちが、台の上に乗ったテレビカメラを凝視しつつ、スーツ姿の係員に押し込められる。なんの人集りだろうかと指をさす人々も、時間とビル名を確認することで、またもやせっかくだからと人集りに加わる。何人かは、メガネ型端末を用い、自らも動画配信を試みている。
 中継開始まで残り20秒に迫った時、赤い麦わら帽子にカエル柄のズボンを纏った人物は背中を叩かれる。
 ――I, I, I'll come......
 拙い発音で話す少年は、自分が叩いた背中の持ち主の顔を見上げる。
 ――はい、はい、あなたが0518......
 声で女だとわかるその人物は、地球のものとは思えない手つきで少年の肩を抱き、人集りから抜け出す素振りを見せる。
 その瞬間、青森テレビを除く全国23ネット各局を通じて、2人の挙動が、2センチから15センチほどの大きさとなって無数の液晶画面に映し出される。青森テレビでは、4時間45分の時差を持って放送される2人の会話は、スタジオの喧騒とバックミュージックに掻き消されつつ、吹き出しの中に記された状態で、こちらには提示されたままとなっている。
 ――sorezya kyomo sorosoro ittemo iikana? 
inserted by FC2 system