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     b
 
 
 夏休みまであと1週間に迫ったその日の朝、田越直哉は目覚めるとすぐに窓の外の曇り空を見て、それから自分のiPhoneで天気予報を確かめた。
 暴風波浪注意報、大雨注意報、落雷注意報。
 隣の県では警報が出ていたが、それも大雨警報だけだった。
 
 
 家を出ると、道中で向井洞士に出くわした。彼もまた、夏季特有の巨大な低気圧によって学校が休みになるものだと信じていた。宿題もほとんどやっていなかったため、同じような境遇のクラスメイトたちといっしょに、3時間目の家庭科が始まるまではなんとか鉛筆を握り続けた。10行の文章を丁寧にノートに書き写す作業、それも土日を挟んでいたために普段の3倍はある宿題は、誰かから答えを写させてもらうわけにもいかず、結局は4時間目前の休み時間に、全員が諦めてしまった。こんなことより、田越直哉にとっては、放課後に行う降霊の儀式について、iPhoneで調べる方が大切だった。姉の誕生日も終わった今、3人の中で一番興味を奪われているようだった。
 雨風がますます強まりつつある放課後、バスケットボールのクラブ活動が終わって体育館に誰もいなくなるまで、教室でカードゲームをして時間を潰し、午後6時のサイレンが鳴ると、3人は、いるのかどうかもわからない見回りの先生に見つからないよう、声を潜め、体育館に向かって行く。
 本来なら鍵がしまっているはずの扉、それは体育館倉庫にしても同じだが、3人に、鍵がしまっているという発想は1度も浮かばない。
 扉は、なんの障害もなく開かれるのだった。
 数10分前までユニフォーム姿の子どもたちが飛び跳ね走り回っていたはずの体育館は、予想される暴風波浪警報のため、汗のにおいもざわめきの余韻も感じられず、夕日に冷え固まっている。
 
 
 ――こっくりさん、こっくりさん……
 暗闇に、幼さの残る声が、いくつかずれつつ重なっていた。窓が雨に揺れる天候の悪さを示す基底音が、画面内の出来事を、時間的にも地域的にも近しい場所であると知らせてくれる。
 ――ばか、倒れてんじゃねえか! 
 ――ちょっと、集中しろよ
 ガサガサとカメラ自体の動かされる篭った音が響き、分厚いマットが壁沿いに積まれた薄暗い室内と、床に座った2人の人間、そして彼らに囲われるように置いてある1枚のざら紙が映った。カメラ位置を修正していた1人が加わって人間は3人になるが、人体のバランスからしてまだ子どものようだった。
 ――中継なんだから映ってないと意味ないだろ。えっと、はい、すいません。もう1度始めたいと思います
 3人の人差し指が1枚の10円玉を押さえている。ざら紙に記入された50音表や鳥居の絵が、カメラの角度からして非常に見づらいものの、なんとか判別されうる。本来なら、誰か1人がカメラマンの役割を担うべき状況だろう。荒川裕司は、iPhoneの画面に表示されている視聴者数やコメントが気になっていたこともあり、ぜひとも自分がその役割を担いたかったが、この儀式は3人共同で行わなければならないという、田越直哉の主張に押し切られる形となった。
 こっくりさんなど、元々そういったオカルトチックな番組や書籍を好む自分か、それこそ30年ほど前の子どもならまだしも、霊感すらない向井洞士と荒川裕司が本気で信じているとは田越直哉には思えないが、彼らにはiPhoneを用いた動画中継を、ゲーム実況、ラジオ方式、授業盗撮と、さまざまに行ってきたわりにはことごとく視聴者数もコメント数も2桁、場合によっては1桁しか得られない過去を払拭するため、体育館倉庫で自殺した少女の霊を呼ぶ必要があった。
 たとえなにも起こらなくとも、奇妙な物音や、不可解な光が映りこみさえすれば、これまでの努力に見あった評価がもたらされうるだけの価値ある録画データが手に入る。匿名希望の有志により保存されアップされたかのように装う準備もできていたし、複数のSNSアカウントであたかも人気が集中しているかのように拡散の初動を促す準備もできていた。それらの点で、荒川裕司は抜け目ない男であり、どれだけ横暴な発言があろうとも、田越直哉や向井洞士からの信頼は揺るぎない。そんな風にも見て取れそうだった。
 
 
 ――ここで自殺した女の子はいましたか
 10円玉が、ゆっくりと〈はい〉の上に移動していく。田越直哉は興奮を隠しきれない様子だ。他の2人も、無表情ではあるものの、どこか驚きを隠そうとしているように見えなくもない。
 ――その人は今もここにいますか
 画面上には、どこかからの引用だろうこっくりさんの自己暗示的側面への分析を並べたて、少年らを嘲笑うコメントが流れるが、誰も納得や反論をする気配はない。今のところ寄せられたコメントはわずか4つに過ぎず、どれも同一人物が書き込んでいるのだろう、使用された心理学用語には誤りが散見する。
 ――それはどうしてですか
 数ミリずつ、小刻みに四方八方へ揺れながら、10円玉は微かな意思の存在を示している。向井洞士は、自分のものも含めた3本の指先に視線を注いだまま、しかしどこかから、腐敗した魚をトマトや生姜で煮たてたような異臭を嗅ぎ、わずかに顔をしかめる。外ではいよいよ風が強まり、7月の午後6時30分ごろであるにも関わらず、気温は20度を下回っている。
 ――なにかお手伝いできることはありますか
 3人の指先が出処不明の言葉を伝達する中、カメラが不意に倒れ、天井が映される。
画面右奥に、女子中学生らしき制服が浮かび上がる。
 ――あ し た ま た き ま す
 それを合図に、すべてが逆さまになるほどの振動と爆発音が湯山小学校全体を貫く。
 
 
 10円玉が天井に引き寄せられて張り付き、中継が大きく乱れる。一瞬、すべてが灰色に覆われ、すぐに再開するものの、画面は黒一色のまま、流れるのは音声だけしかない。
誰かがiPhoneを拾い上げたようだ。レンズ横に搭載されているLEDライトを利用して周囲を確認するが、体育館倉庫の壁際に積まれていたマットが四方に弾けている。その内の一枚と衝突し、壁に打ち付けられた様子の田越直哉のもとにカメラが駆け寄り、荒川裕司が声を掛ける。腰を強打していたが、なんとか立ち上がることはできるようだ。
 向井洞士が体育館倉庫を飛び出ると、体育館の床は天井から見たステージ側を上方として、水平に1本、傾き30度に1本、傾き40度に1本の、直線的な亀裂が入り、すべて上方が高い形で――つまり体育館倉庫側が低い形で――それぞれ50センチ、2メートル、75センチと、垂直にずれている。3本の亀裂は2本ずつ、計3ヶ所で交わり、体育館中央部に貼られた白いテープが縁取るバスケットボールのセンターサークル、その直径3.6メートルの円の中で、三角柱を立ち上げている。赤茶けた断層面には、ミナミヌマエビが数百万匹群がって蠢き、所々はみ出た32枚の画用紙の断片が、濡れ萎れて何の絵かは判別できないものの、片面に描かれたクレパスや絵の具の色彩を方々に散布する。
 3人は体育館から南校舎に続く短い外廊下に出た。遠くから木材の焼ける音と臭いが漂ってきていたため、反射的に田越直哉が――火事だ、と喚く。雨風はいつのまにかぴたりと止み、炎が風で燃え広がることのない反面、膨大な降水量によって自然鎮火していくことも期待できない視聴者は、カメラと共に火事の気配のある方角へと走らせられる。
 その時、よく見れば学校敷地内と外を区分けする緑色の網フェンスの数センチ向こう側に、あるはずの山や川は消え、代わりに黒い空間が壁のように立ち上がり、遠近感のない風景が、自然のざわめきも軽自動車の交通も、一息に呑んでしまったかのようであるのがわかったはずだが、あまりに興奮した3人は、それに気づきもしていない。
 
 
 大きな手振れでなにも情報を伝えることのなくなっていた画面が、3分半ぶりにようやく輪郭を映し始めると、廊下の先から黒煙があふれている。二度階段を上った先の、直角に曲がった廊下の形からして、ここは東校舎三階、出火元は図工室だろうか。
 ――あれ、誰だ? 黒煙の中に、小さな人影が見える。3人の幼く荒い息遣いに、パチパチと火の弾ける音が被さっていく。――ズーム、ズーム! 向井洞士に急かされ、画面が拡大する。より詳細に捉えられた黒煙には、うっすらと男の子の姿が見て取れる。いや、女の子の可能性も捨てきれない、煙の勢いが強すぎて判別できない、などと迷っている内に、すでにそれはこちらに向かって走り始めている。頭部が近づくにつれだんだんと大きくなる。
 一般的な遠近法に従っているようでありながら、しかし胴体はどれだけ時間が経過しようとも、画面上にあらわれた瞬間の大きさのまま、ずっと同じ地点に留まっている。手足は頭部ほどではないにしても、胴体ほど静止せずに近づく。胴体が手足の10分の1、頭部が手足の十七倍ほどに達したとしても、全身は分離しない。左右の壁が内向きに縮んでいくように感じられる。天井が床よりも狭くなる。
 ――こここ こここここ こ こ
 動画表面を流れるコメントが激増し、二重三重にあふれ、向井洞士ら3人の絶叫とともに状況の把握を妨げる。音割れが酷くなり、映像は再び情報量が著しく低下する。電波が届きにくいのか、コマ送りになりつつある音声が、何度も鈍く断ち切られる低音に、タブレット端末のスピーカーが震える。校舎中庭の木々が3本折れ、南東、東、北東へ精確に45度の角度を持って根こそぎ倒れる。
 それらの動きとは対照的なコメントの羅列は滑らかさを止めず、コメントの背後の風景が廊下いっぱいに膨れ上がった何者かの頭部に占められるのを覆い隠してしまう。完全に停止した中継に、モザイク状の亀裂が入った巨大な顔面が残存する。
 
 
 古谷葵は自室で戸惑っていた。5年前に購入した学習机の棚は教科書がきれいに整頓され、埃などはほとんど目立たない。学習机の上にあるのは型落ちのタブレット端末と、数日前に知り合ったTwitterアカウントから勧められた漫画だけだった。母親は帰っているのだろうか。古谷葵の両親は帰宅が遅く、鉄道会社勤務の父親は午後11時、広告会社勤務の母親は早くとも八時を過ぎる。夕食は72歳の母方の祖母が作ってくれるが、そのぶん母親は帰宅しても祖母と顔をあわせたことで満足してしまう。スーツからラフなジャージに着替え、勤務先近くのスーパーで購入した値切り商品をつまみ、発泡酒を飲む。祖母とバラエティ番組を見る。自室にいる娘とは「おやすみ」と交わすだけで眠りにつく。
 古谷葵がリビングを訪れると、すでに風呂に入ったのかパジャマ姿の母親と祖母が、ソファに座り、テレビを見ていた。時計は十時を過ぎている。古谷葵が隣に座っても、母親はテレビから目を話さず、――うちの県じゃなくてよかったね、と呟き、祖母がそれに頷く。地震速報のテロップが、20人ほどの芸人の防波堤上でこちらに向かって手を振る映像の上部に表示され、震源の浅さと、震度の低さ、いくつかの知っている地名をそこに分類していく。
 ――さっきパソコンでね、荒川くんとかの生中継を見てたんだけどね、と隣に座った娘に太腿を叩かれるが、母親は軽くあしらう。どうしてこの子はこうも世間の物事に興味を持たないのだろう、絵本を読み聞かせてあげても、姉の涼子は黙って熱心に聞くのに、妹の葵は集中力がなさすぎる。かと思えば、自分で作った嘘は、聞いてやらないといつまでも静かにならない。しかも、突拍子もないことならまだしも、本当と勘違いしてしまうかもしれない嘘を真剣に言うのだから、自分の娘とはいえたちが悪い。地震速報が終わり、芸人たちが1人ずつ海に背中から落下し始めてから、母親は太腿を叩く娘の手を掴んでやった。――なんで今ごろ学校にいるのよ、それもこんな大雨の中で。
 夕方くらいにみんなでこっくりさんをやってたの。それから急に止まっちゃって、それで――こっくりさんって言うな! 祖母が古谷葵の方を向いて怒鳴り、すぐにまた笑顔でテレビの方を向く。
 ――それで? と母親が合図するまで、古谷葵は呼吸も止めてしまっていたが、――それでね、宿題してからまた見てみたら、いつのまにか始まっててね、と言ったところで、短い電子音に阻まれ、またもや3人はテレビ画面上部を凝視してしまう。
 バラエティ番組のエンドロールの上で地震速報が点滅している。先ほどよりも震源が深く、震度もさらに弱まるが、そこに分類されるのはどれも見慣れた地名であり、なにより一番最初に表示された震源地は、先ほどのものと比べ、ここからの距離が半分に狭まっている。
 ――揺れた?
 ――いや、揺れたかな
 母親は祖母の横顔をじっと見た後、ふと横を見ると、娘はいつのまにかいなくなっていた。
 
 
 古谷葵が自室に戻ると、タブレット端末はスリープモードに入っている。慌ててロックを解除し、動画中継サイトのアプリを開く。あれだけ氾濫していたコメントは一つも見当たらない。音声と映像の落ち着きから、古谷葵が席を外していた内にすべて解決したかのようでさえある。しかし、よく耳を傾ければ、乱れた呼吸を必死に抑え込む手のひらの隙間から、甲高い声が短くこぼれている。視聴者数は累計で32。コメント数は3。動画中継自体はやりなおしていないのに、共に減っている気がする。少なくともコメント数は、古谷葵が5度書き込んでいる。
 ――だいじょうぶ? と古谷葵の送ったコメントが右から左に3秒ほどかけて流れる。流れ切ってから40秒後、もう一度コメントを流すが、同一内容は続けて書き込めない。画面にわずかな動きがあったとしても、暗闇の濃淡の配置が変わるだけに留まる。
 ――古谷です
 カメラが大きく揺れ、いったん静止する。
 ――古谷葵?
 田越直哉らしき息だけの声とともに再び揺れ、黒と灰色のマス目で構成された映像が、人間の顎の輪郭を紡いでいく。
 ――はい
 ――マジだよ、すごい
 田越直哉の声が、極端にアップされた口元と同期している。ズームになっていた画面が正常倍率に戻されると、画角も広がり、口元が荒川裕司のものであったと判明する。しかしすぐに荒川裕司の顔面左半分が横転、フレームアウトしてしまい、さらには映像がプツリと途切れる。
 一瞬後に再開した映像には、インカメラになったのだろう、画質の大きく落ちた荒川裕司の唇が映り、それが動くと、若干のタイムラグを挟んで、荒川裕司の小声が応答する――いま学校にいるんだけどさ、やばいんだよ。なんか変なやつに追いかけられてて、図工室が火事で、それで、向井洞士が死んじゃって――えっ、と古谷葵は1人だけの部屋で思わず声を出したことが、荒川裕司への応答になっているように感じられ、キーボードを打とうとしない。
 
 
 田越直哉、荒川裕司、向井洞士の3人は、西校舎側の階段で一階まで降り、走りついた正面玄関の扉を開こうとしたのだった。ガラス張りの扉はびくともしなくなっていた。三人で必死に扉を押し開こうとしている内に、怪物は東校舎階段を使って間近に迫り、木製の靴棚の列から顔を出す。荒川裕司が声を張り上げた時点で、すでに向井洞士は捕獲され、田越直哉と荒川裕司は逃げ出せたものの、向井洞士がはたしてどうなったのか、田越直哉は向井洞士の悲鳴――イタイイタイ――と、ガラスが割れるほどの衝突音を耳にしている。荒川裕司と田越直哉の2人は給食室奥の東校舎階段で二階まで上り、今は理科室手前に設けられた算数準備室に隠れていると言う。黒煙はまだここまで達してはいないが、それも時間の問題だろう。
 ――地震のせいかな
 開かなかった正面玄関については地震で説明できても、それならば窓を叩き割れば済む話で、どうあの怪物から見つからぬまま逃げ出すかが、なによりの問題である。古谷葵の自宅から学校までは徒歩で片道20分、いくら直下とはいえ、体育館だけが裂けるほどの局地的な被害がもたらされるとは思えない。
 ――携帯の電波が届かないんだ。今は無線LANでつないでる
 ――わたしは届いてるよ
 ――でも、どこまで届くのかわからない。教室では少なくとも届かなかった。どこから発信されてるんだろう
 ――警察呼びます
 古谷葵は自分のスマートフォンで〈警察 番号〉と検索し、関連キーワードとして表示される〈警察 110〉に従い、110をダイヤルすると、湯山小学校で火災が発生、生徒3名が閉じ込められているとの連絡を受けた松山東警察署湯山駐在所の高畑郁男巡査が、灰色の合羽を身に纏い、交番用黒オートバイ〈スズキ・バーディ90〉を走らせる。
 
 
 松山東消防署は、現場から500メートルも離れていない松山東警察署湯山駐在所による確認をもって初めて出動することとなるだろう。なにせ子どもからもたらされた終始辻褄の合わない情報だ。興味本位のいたずらか、はたまたオペレーターの恣意的な解釈が働いたのか、高畑郁男巡査が国道317号線を南に走行中、強まり始めた風雨越しに捕捉される湯山小学校校舎は、外見上なにも異常は見当たらず、むしろ濡れそぼったその全景は、火災とは無縁の印象を与える。
 生徒三名が閉じ込められているとの話もあり、念のため警備会社に連絡をとって校門を開いてもらうと、高畑郁男巡査は全身に雨を滴らせながらも、校内の見回りを開始する――なつかしいなあ、20年ぶりか? 灯りのついていない廊下はもちろんのこと、夜の雨粒に満たされた窓ガラスの震える音は、今年36歳になる高畑郁男巡査の幼い日々を思い出させもするのだろう。若干の内装のリフォームはあったのかもしれないが、それにしては奇妙に強過ぎる違和感がつきまとい、言うならば記憶の中で右に配置されていたものが左にある。しかしそんなはずはない――懐中電灯で教室内の机という机、黒板という黒板を、廊下から覗き見する。
 次第に、高畑郁男巡査がなにやら気づいたことには、夏の豪雨特有の、水草をすり潰したような湿った臭いの他に、確かに何かが焦げ付いたような臭いがする。音や気配はない。慎重に嗅覚の誘われる道筋で歩を進め、西校舎3階への階段を上り終えた高畑郁男巡査は、廊下の先、社会科準備室の扉の隙間から煙が漏れ出ているのを発見する。
 煙は黒く、しかし暗闇とは異なり、懐中電灯の光を筒状に浮かび上がらせ、天井に蓄積していく。雨合羽の前ボタンをとめ、なるべく態勢を低くし、一酸化炭素の摂取を可能な限り抑えようとするが、これは火災とは違う、この映像をどこかで見たことがあったような気がする。けれどもそれに思い至る前に高畑郁男巡査は扉に手をかけている。鍵が閉まっていることもありうると、その疑問が意識されるのと同時にひとりでに扉は開かれ、黒煙の塊が質量をもって高畑郁男巡査の胸部を貫通し、高畑郁男巡査は後ろ向きに転倒する。
 まるで撃たれたかのようだった。防弾チョッキはつけていない。床に大きく叩きつけてしまった懐中電灯を、高畑郁男巡査は拳銃でも向けるかのように勢いよく構える。
 すると、東校舎2階算数準備室の奥に隠れていた荒川裕司と田越直哉が、自分たちのiPhone以外は明かりの1つもなかった室内に、1本の強い白色光が差し込まれたことに気づく。まさか誰か助けに来てくれたのではないかと、なんの警戒もなく2人して顔を出すと、いつのまにか開いていた扉から伸びる白色光を背に、髪の長い女子中学生が立ち尽くし、こちらを向いている。
 高畑郁男巡査は、後ろ姿ではわからずとも、女子中学生の体を水平方向に180度回転させれば、それがかつて同級生だった金井李華子であると知ることができたはずだ。
 彼女は今や総合商社に入社し係長に昇進したエリートではなかったか? 
 しかし次の瞬間、脊髄の折れる音とともに金井李華子の首がカクンと前に倒れ、背中から背骨が突き出てくる。制服に穴が空き、少ない光量でも赤く血が滲んでいるのがはっきりと見て取れる。頭頂部に十字型の亀裂が入り、内側からめくれ上がると、両肩が脱臼し、30センチ下方に推移する。頭頂部のめくれ上がりが首元にまで及び、背骨がさらに突き出るに従い、腰も相応の長さだけ引き上げられ、弛んだ皮膚が下腹部に溜まっていくのと同時に、両足が関節に許される限り大きく開かれる。掠れ気味だった全身が、ガニ股になった足によって地面に接着し、上半身が反り返ると、肋骨の両側から生えているようにさえ思える位置にまでずれた両腕が、もう一組の足、つまり前足として体を支える。四面に剥かれた頭部の内側からは、幼児の掌のような形をした先端を持つ48本の肌色の触覚が、背骨に絡みつきつつ、脳を苗床として急激に成長し、背骨の先端にまで至ると、傘状に小花が広がるように咲く。それぞれの掌の中央には、真っ白な強膜と真っ黒な瞳孔が開いているが、瞼はなく、円形でも流線型でもない人間の親指の爪のような形をしているため、瞳孔が二箇所に分離し、強膜がその間を繋ぐような役割を果たす。
 48本の触覚、及びそこに開かれた複眼の瞳孔は、その形状からして大きさの調整範囲が極めて広く、また弱い光に敏感な桿体細胞が網膜に多いため、暗所で最大限の力を発揮する。0.001ルクスの光の下で700メートル先の小動物を捕捉することができる。高畑郁男巡査が照らした懐中電灯に一瞬怯みはするものの、彼は金井李華子の目がどこであるかを咄嗟に判断することができなかったがために、金井李華子は前足を使って高畑郁男巡査の顔面を難なく押し潰す。
 胸元から股間までを一直線に切り裂き、大腸、小腸、胃、肝臓を一息に引き出すと、理科室のある右方向へと投げ捨て、続いて肺、心臓、横隔膜に取りかかる。あらかた空洞になった胴体は内側から背骨を掴んで持ち上げられ、ぶらぶらと揺さぶられて余分な血液を散らした後に、床に落とされる。ねじまがった高畑郁男巡査の肉体では、横腹の皮膚と背中の皮膚、そして太腿が触れ合う。
 金井李華子は飛び出た背骨の根本から茶色の粘液をゆっくりと分泌し、床の上の高畑郁男巡査に万遍なく掛け与える。すると、高畑郁男巡査の肉体は袋のように裏返っていき、取り除いていなかった肉や骨は粘液の中で溶け、皮膚だけが特殊な素材でできているかのように残り、コンパクトにまとまる。
 粘液は1分ほどでゼリー状に固まり、茶色い粘膜に包まれた赤黒い皮膚の球体となった高畑郁男巡査を、金井李華子は自らの背中側、今では腹側とも言える部分に貼り付け、ようやく一連の作業は完結する。金井李華子は前方へ進み、右手に現れた東校舎階段を2段ずつ器用に下りていく。
 
 
 一部始終を目撃した荒川裕司と田越直哉は、しばらくの間放心状態となっていた。通常であれば、このまま2人は恐怖で固まり、身動きが取れない中、助けを待ち続けるだろう。ほんのわずかしか与えられていない周囲の情報から出力される選択は、それが最善であると述べるはずだ。しかし、不可解なことに、荒川裕司の手の中にあるiPhoneの画面上に古谷葵のものと思われるコメントが流れてきたのを境にして、いや、正確に言えば、古谷葵のiPhoneに1通のメールが届いたのを境にして、まるで発作的な恐怖が限界値を超え出てしまったかのように、荒川裕司の思考は及ぶはずのない地点にまで及ぶ――金井李華子と出会わないだろう西校舎から体育館へと移動し、体育館裏の教員駐車場から学校敷地内を脱出するルートで、自分たちはいとも簡単に助かるのではないか。この状況から逃げ出せるのではないか。ひとまず西校舎階段まで到達することが先決だ。
 古谷葵への応答も、田越直哉への説明も、さらには自分自身への合理的な解釈すらもなく、荒川裕司は立ち上がると、算数準備室前に広がる粘液をそっと避け、あとはひたすら強引に廊下を走って行く。田越直哉も後ろから追いかけてしまう。
 2つの足音が直線の軌跡を描いている。しかし、東校舎と西校舎の境界にさしかかった時、やはり彼らに課せられた極端な選択に伴う計算量の増大に個体としての処理能力が追いつかなかったのだろう、2人の走る動きだけがスローモーション化し、校舎外の、たとえば一般道を貫く二トントラックが30メートル進むステップで、田越直哉の顔面は6ミリしか前進しない。
 鼻筋のすぐ横を、2本の繊維状の埃がふらりと舞い上がり、そして落ちて行く。
 次第に荒川裕司の選択は、空間内に用意されていたメモリーの余白すらも食い尽くし、この時点で湯山小学校敷地内だけになっている地上の時間を、荒川裕司と田越直哉が西校舎階段に到達するまでの間だけ、4分の1倍速にしてしまう。しかしあくまで過去との比較であり、すべての時間が停滞した現在、4分の1倍速を体感するものは同一空間に存在しない。
 
 
 古谷葵は突然の雑音と共に途切れてしまった動画中継を前に、4分、5分と待っていても再開する気配はなく、ウインドウをクリックしても、こっくりさんの中継から始まるオンライン上の録画データは、13分間と42分間の二つの数値化された再生時間内に留まって繰り返され、再生するたびに自分の流したコメントが流れてくるばかりで、応答は返ってこない。警察が彼らを救出するのはいつになるだろう。すでになにもかもが終わっていて、心配したのが馬鹿みたいに思えるかもしれない。
 そうだ、玲奈にメールしよう。最近はめったに話さなくなってしまったけれど、今ならきっとなにか教えてくれる気がする。もう寝てるかな、漫画の邪魔だけはしたくないから……古谷葵はiPhoneを手に取るが、すでに誰かからのメールが1通届いている。登録されていないメールアドレスだった。
 これがShinzi Aokiから古谷葵への最初のコンタクトであると考えられている。
 この際に送られてきた計8通のメールの内容が、テキストデータとして少なくとも3つのウェブストレージサービス上に保存されていたことが、後に判明している。どれも古谷葵が頻繁に用いるIDとパスワードで登録されたアカウントだった。
 テキストデータのサルベージと修復に、一部ではあるものの成功した人々は、以下にそれを掲載する。翻訳が必要と思われる箇所は、Google translate 2035 による自動日本語訳を経ることで、リーダビリティの確保と原典への逆翻訳を同時に確保する。
 
 ――古谷葵様
  向井洞士や荒川裕司をお助けいただきたいです
 ――あなたはこちらから送るメールをすべて1文字たりとも欠けることなく1通ごとにファイルやページを変えつつ次の3つの媒体に反復分散させるべきです
 ・あなたの所持しているスマートフォンのメモアプリ
 ・利用可能ななるべく多くのウェブストレージサービス
 ・あなたが小学校で使用してきたノート各学年につき3冊ずつのページの余白
 ――A-HOR0518
 ――syarai
 ――@6K_92ae43/@yn935312
 ――2023/05/31 11:59:30(JST)
  東京都新宿区新宿3丁目24番3号
  赤い麦わら帽子カエル柄のズボン
 ――私は明日また来るでしょう
 
 
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