ティランノサウルスに対して
 
 
 幽霊がいる世界はきっと幽霊を見てもすぐに忘れてしまう世界だ。人が八十歳で死ぬ直前に生まれたとしても、それはそれとして生まれてから死ぬまでの新たな過去の系列が生まれている。因果律はほつれてまた固まる。なぜなら死への恐怖の強さはその対象への常駐性にあるからだ。なにかが死んでそれが悲しいならそれは記憶が引き継がれているということであり、毎秒忘れるなら悲しくない。わたしが死んでもわたしへの親しみがなければ悲しくない。道端に転がる頭の砕けた蝉の死骸。因果律はどこまでもついてくる、人が記憶を持つ限り生まれて死ぬまでの記憶がわたしとして残ることが悲しいそれがわたしだ。
 小説もそうだ。どれだけ書き手のわたしが壊れても文章、特に小説というものは過去を覚えているから、それらが通用する、つまり記憶を引き継ぐための因果律を備えた生命がわたしとは別に錯覚的にあらわれる。個別のわたし、個別の宇宙が存在せず、すべては無限に存在しているなかで錯覚的にあらわれる愛着こそがわたしでありこの宇宙であるのなら、そこには直線的時間がまずあるなかで宇宙が配列されているのではなく、瞬間ごとのスナップショットとしての宇宙がそれぞれに内包された物理法則もしくは刻まれた地層から過去と未来のその「隣の宇宙/わたし」を発見し、愛着を引き継ぐ。
「ここ」とは可能性の分布であり、千個の点がぼんやりと集まって黒ずみに見えるところが現在である。つまり途中で別の人間や機械が書きはじめたとしても小説にはそれの背後にある常駐性としての宇宙/わたし=生命が生まれる。どうしてもわたしがそこにあらわれるのなら、それではこのわたしから次のもしくは前のわたし、このスナップショットとしての宇宙から次のもしくは前のスナップショットとしての宇宙を発見する、それぞれに内包された愛着への手がかりはいったいなんなのか、それは本当に数式としての規則によって記述可能なのか? どこまでも世界がほつれてどこまでのわたしに行き着けるだろう、因果律をどこまで果てに飛ばせるだろう、幽霊をすぐに忘れずに済む因果律の構築とはいかなるものか、その宇宙系列に愛着を持つとはどういうことか? 心身問題もそういう意味で小説とつながる。逆に言えば小説は心身問題である。
 輪廻することで行きつく先をその時間の蓄積のなかで見出せるのではなく道を覚えるということ、行きつく先までの時空間そのものを満たしつづけるということ、ネットワークに霧散し突然目の前に飛来する可能性を保持したまま、しかし自分でない何者かによって、それは自然やパスワードの不一致や依拠したシステムの経済的問題による終了かもしれないが、二度ともどってこないかもしれないその断裂、いやそもそも生物の記憶が本来としてそうであったようなかたちとして、あらゆる種類の発達した記憶が今を生きるための身体装置となる。過去のわたしをわたしは機械の電源を押すようにはじめて過去のなかでコンピュータの電源を画面のなかの機能で落とすように過去を落とす。自ら落ち転がった過去をほかの人が自分として拾い上げ、また電源を押し、今の道を思い出す。そのとき道は図になっても矢印になっても道としてかえがたい存在になる、だから覚えている。もともとのわたしは誰かが電源を入れなければわたしとしてはじまらないが一度はじまればわたしは内側から電源を落とす、落としたあと誰かが使えるようなかたちで落とす。そのかたちは周期律表であらわされることだろう。この言葉のように。
「わたしは文章を書いてるあなたとご飯を作ってるあなたはおんなじで、だからあなたがわたしの好きじゃない文章を書いたときに怒るわたしとあなたがえのきの根っこをたくさん切りすぎたときに怒るわたしはおんなじなの。わかる?」
 ぼくという操作。ぼくという周期律表。なにかに魂を見るということは魂というパターン/リズム/変換/関係/操作を見るということであり、膨大な情報量を圧縮してしか認知できない生き物たちの有意義な特徴と言える。審判をくだす内面にやりとりされた世界地図。それはぼくにはこれまで書いてきたほんのいくらかの小説にさえもひとつ残らず共通してあらわれている。そうではなくあとから発見する。@郊外の新興集合住宅街が都市より上昇した位置に配されるA車内から見た道端に新聞紙で顔を隠された犬の死骸を発見する、新聞紙が吠えるB食事によって別の系列が摂取され思考の改変が生じるC基調音と名づけられた反復的操作を発見する、――そういった言葉というより身振りのようなものは、いつのぼくが書いてもそこに見られ〈うる〉ということはぼくはぼくでなくともぼくである。どれだけ月日が経ったとしてもぼくはぼくの認知傾向であることの証明になる文章群、すなわちそれが群れとされるなら操作はぼくの外からぼくとは違うぼくを経由し到来してもいるのだろう。まったく発端のつかめない、いや忘れてしまったのかもしれない、そういう発端からのらせん状の移動が個体としてのぼくの頭のどこかにある。忘れた過去から思い出すように別の世界のログデータが届いてくる。あなたがわたしとして書いたものにはもちろん、ぼくがぼくとして書いたものにも今のぼくはちぎれている。「宇宙人がいると言われても驚きません。それは人だからです。人間ではないけれど人ではあるものなんて、地球にすらどこにでもいます。犬も猫もクラゲも草花も、あなただって、自分の肉体の情報を世界のなかで維持するために生きる知識を発達させているという意味で、人間と変わらない人という操作がある。分子に蓄積された情報が水となり、岩石となり、生物となるなかで蓄積された情報が、知識として世界を操作に圧縮しながらそれにより宇宙を寿命以上に存続させることでしょう。五十億年後に息絶える太陽を自分の存続のために生かす、いつか宇宙が膨張しすぎて熱的死を迎えるのを自分の存続のために生かす。つまり宇宙や太陽を知識ないし操作が自らの体の端々として、理解はできないけれど自分に関わりあるものとして担う。このための小説です。宇宙系列を本気で移せると思うのです。もしも本当に、宇宙人とさえ呼ぶことができない生物がいるのだとすれば、たぶんぼくたちには本当になにげない、どうでもいいものとして目の前にあらわれるでしょうけれど、知らず知らずのうちにぼくたちはあちら側にのみこまれてしまう。終わったこととして。
 そういう事態として受け取りましたが、どうでしょうか」
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